正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

本年最後の論考

さて本年も今日で最後です、このブログも段々と注目率が上がっているようで、こういう偏向的なテーマなのにアクセス数がハンパない時があり、ちょっとびっくりしますね。訪問いただいている方には熱く御礼申し上げます。と今年のご愛顧を感謝しつつ・・。

・初期経典が釈尊の直説という証明はできない
釈尊が説いた法と現在伝わる仏教が全く同じという証明は不可能

それはともかく上記の二つは今年中には書ききれないので、 ガイドラインのみ記して来年の記事にしたいと思います。「初期経典が釈尊の直説という証明はできない」という問いには、「原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究」という、こういう学術的サイトがありますので、参考になるかと思います。

ここにはバーリ語の元になった釈迦が教団で使用していたマガダ語とかの類似とか、サンスクリットに翻訳するときのこととか書かれています。膨大ですので、気になるテーマから読めば理解できると思います。

次に釈尊が説いた法と現在伝わる仏教が全く同じという証明」ですが、これを言ってしまいますと、大乗仏教が土台から崩れます、こういう矛盾を抱えた自爆的な問ですが、仮に大乗仏典もインドで正統系譜として、漢訳の現場でどういうことが有ったのかを研究した「仏典はどう漢訳されたのか」という書物があります。目次だけ見ると非常に興味深いですね。

第1章 漢訳という世界へのいざない――インド、そして中国へ
第2章 翻訳に従事した人たち――訳経のおおまかな歴史
第3章 訳はこうして作られた――漢訳作成の具体的方法と役割分担
第4章 外国僧の語学力と、鳩摩羅什玄奘の翻訳論
第5章 偽作経典の出現
第6章 翻訳と偽作のあいだ――経典を“編輯”する
第7章 漢訳が中国語にもたらしたもの
第8章 根源的だからこそ訳せないもの
第9章 仏典漢訳史の意義

このことを取り上げた信州大学人文学部「ブログ」から引用しますと

 ここでは仏典翻訳の流れ作業が細かに記述されています。中でも、サンスクリット原典から、単語レベルで置き換えられた文が、漢文として意味が通るように語順の入れ替えなどの操作がなされること、さらには漢文として読みやすくするための「潤文」(翻訳における加筆・挿入)がなされている、という点でした。

 現代の私たちがサンスクリット原典を翻訳する際にも、確かに、加筆・挿入を加えることは多々あります。しかし、原典にない言葉を入れるわけですから、括弧に入れる等の処理をすることで、それが挿入であることを分かるようにしておくのが通例です。

 ところが、漢訳仏典の場合には、それは必要な措置として翻訳の一部に堂々と組み込まれているわけです。これを知ってしまうと、漢訳しかないテキストからサンスクリット原典を復元しようなどということが、土台無理な話に思えてきます。が、同時に、その「潤文」の規則が分かれば、原典におそらくなかったであろう語句なども推測できるようになるのかもしれません。
直訳か、意訳か?

 もう一点、非常に興味をそそられた個所を紹介しておきましょう。

 『法華経』をはじめとする流麗な訳文で知られる鳩摩羅什は、外国僧としては卓越した翻訳能力(漢文の力)を有していた人でした。その彼をして、インドの韻文を漢文に翻訳することは、「まるでご飯をかんで人に与えると、味が失われるだけではなしに嘔吐を催させるようなものだ」と言わしめています。

 二つの言語に通じていた彼だからこそ、二言語間に横たわる溝の深さ、翻訳の不可能性を強く自覚していたということです。そして、そのことが「達意の意訳派」として、後世まで読み継がれるテキストを生み出すことになりました。

 その対極に位置する玄奘は「直訳派」の先鋒に立ち、原典に忠実な翻訳を目指したわけです。

 二人の翻訳観の違いを、さらに以前にまで遡り、翻訳における「文」と「質」をめぐる論争のポイントがまとめられています。

「もちろん原典に忠実で、かつ、意味が明瞭簡潔で自然にすらすらと頭に入る訳(文質彬彬)が理想であるが、そのような訳を実現するのはきわめて難しい。近い関係にある二言語間の翻訳ならば、両条件を満たすことも可能だろうが、梵語から古典漢語への翻訳のように言語的に隔絶のある場合、とりわけ両条件を備えた翻訳は困難である。その場合、あえて選ぶなら、読みにくくてもとにかく直訳の方がよいか、少々原典から乖離しても全体的意味のわかる、読みやすい訳の方がよいかが、この論争の要点である。」(p. 114f.)

 この記述はほんの入り口にすぎません。ここから船山先生は、さらに詳細に鳩摩羅什玄奘の翻訳観の違いを音訳や翻訳不可能性の視点から論じておられます。けれども、上記の引用個所だけからでも十分に、本書が〈翻訳〉にかかわるすべての人たちに根源的な問題を扱っていることが理解されるのではないでしょうか。(書籍紹介 船山徹『仏典はどう漢訳されたのか』)

ということで、日蓮シンパの正宗としては、非常に都合の悪い話もあります。大乗仏教のとりわけ日蓮系に関しては意訳の経典引用から更に加上した解釈を施していますので、漢訳経典の問題もさることながら、日蓮系に関してはやや問題外の問いでは無いかということですね。