正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

日本は神国:7

さて、まだ色々ありますが、最澄延暦寺を開いた時の経由とか日蓮は知らなかったようです。

いかなる事にやと・うたがは(疑わ)りし程に桓武の御宇に伝教大師と申す聖人出来して勘えて云く、神はまけ(負け)仏はかたせ(勝たせ)給いぬ、仏は大王・神は臣かなれば上下あひついで・れいぎ(礼儀)ただしければ国中をさまる(治まる)べしと・をもふ(思う)に国のしづか(静か)ならざる事ふしん(不審)なるゆへに一切経をかんがへて候へば道理にて候けるぞ(曾谷殿御返事 )

まず、最澄の先祖は後漢孝献帝に連なる(真偽不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物(別伝で渡来系氏族・三津首(ミツノウビト)百枝という)で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれています。

最澄の出生は近江国の滋賀郡古市郷で幼名を広野といい、長じて出家を志向して14歳のとき国分寺僧補欠として、記録では780年11月12日に得度し名を最澄と改めたとあります。
19歳のとき東大寺で具足戒を受け同年7月、比叡山に登り山林修行に入りますが、その時にこういうエピソードが残されています。

伝説では延暦寺建立より遡ること数百年前に大山咋神(おおやまくいのかみ)が比叡山系の八王子山に降り立ち、それを祀ったのが日吉大社である。大山咋神はまたの名は山末之大主神。
この神は、近淡海(ちかつおおみ)国の日枝山に座すといわれています。最澄比叡山の地主神を延暦寺の守護神とし山王権現と呼んで祀ったのです。
これらを崇めていた先住民は比叡山最澄に譲り瀬田方面まで集落を移したとも言われています。伝教大師と申す聖人出来して勘えて云く、神はまけ(負け)仏はかたせ(勝たせ)給いぬ」という根拠は何処から持ってきたのか不明ですが、日蓮系譜に並べる最澄に至っては先住民の神と仏はちゃんと同居しています。