正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

日本は神国:12

八幡神日蓮遺文以外の本地垂迹に関する文書を抜粋してみましょう。

八幡神=釈迦如来

938年:大分宮権大宮司 藤原実元の女子(7歳)に、八幡神
「本体は是れ釈迦如来の変身、自在王菩薩是なり、法体と名く。女体と申すは、我が母、阿弥陀如来の変身なり。俗体と申すは、観世音菩薩の変身にして、我が弟なり」と宅宣する。(「託宣集」)

八幡神薬師如来→釈迦如来

石清水八幡宮の八幡護国寺(神宮司)では、
八幡大菩薩勧請以前は、白檀の薬師如来でしたが、行教(平安時代の大安寺の僧侶・石清水八幡宮別当安宗の叔父)が八幡大菩薩を石清水に勧請してから薬師如来と並んで八幡大菩薩の神像が安置された。

この話の由来は9歳で即位された清和天皇は859年に夢見され、太陽が我が身に宿る夢を見られた時のお告げにより、九州(大分県宇佐神宮から八幡神を頂いて帰郷した僧・行教が、山崎の港で夜の天王山に霊光を見た。その地を掘ると岩間に清水が湧き出したので、そこに八幡神を安置し国家鎮護の宮とすることにした。「西海から僧・行教によって京へ運ばれた八幡神は、男山鎮座に先立ち、先ず山崎離宮の辺りに着座された」(離宮八幡宮史)という歴史的事実がある。
貞観元年(859年)8月23日、最初に上陸した所が大山崎嵯峨天皇離宮の跡の辺りであったことから、行教の報告を受けた清和天皇は即座にその地に鎮座を命じられた。
後年、霊光を見たとか、清水が湧き出たという逸話が付け加えられている。
しかし、再び八幡神の「男山(八幡市)に遷座せよ」とのお告げを感得した行教が、この経緯を朝廷へ伝えたところ、すぐさま清和天皇の命により男山山上にも社殿が造営さることになった。これが九州から近畿に進出した八幡大菩薩薬師如来の由来です。

しかし、1069年に丈六の釈迦・薬師の二尊が中央の内陣に安置となり、以前安置されていた薬師如来八幡大菩薩は、外側の東西に安置された。

★八幡=阿弥陀如来
855年:能行聖人が神懸りし「吾は是れ、昔の人聞菩薩、阿弥陀如来なり」と告げた。
六郷山は「是れ阿弥陀如来利生の嶺上、観音薩埵垂迹の海畔なり」と託宣を告げた。(「託宣集」)

1152年:宇佐の御許山に八幡大菩薩三所が石躰として権現し、「阿観勢三身」であると記している(「人聞菩薩朝記」)

それぞれに根拠があり、単純にどれが本地とするよりも、当時の神仏習合の混乱した様子が同時期に平行して進んでいる様子がわかります。つまりそれぞれに話の裏に何かの思惑があり、どれが事実というよりも政治的なチカラが動いて釈迦仏や薬師仏、阿弥陀如来等はそれらを隠れ蓑にして権威を通そうとする傀儡であることも推察できます。