正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

天界の神:7

アーラーラ・カーラーマ仙人の指導で無所有処(無色界の下から数えて第3天)を体得した釈迦は、そこでとどまることはなかったようです。マッジマ・ニカーヤ第26経には以下の様な行動が残されてます。

「(ゴータマ・ブッダが簡単に師アーラーラ・カーラーマのいう境地に達したのを知った、師はゴータマ・ブッダを自分と同格と認め、一緒に弟子達を統率しようと言い出した。)このようにアーラーラ・カーラーマはわたくしの師でありながら、弟子であるわたくしを自分と同等において、大げさな尊敬供養によってわたくしを尊敬供養した。そのときわたくしはこのように思った、『この教えは厭離に赴かず、離欲に赴かず、止滅に赴かず、平安に赴かず、英智に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。ただ、無所有処を獲得し得るのみ。』と。そこでわたくしはこの教えを尊重せず、この教えにあきたらず、出て去った。(ゴータマ・ブッダ 釈尊の生涯)」

 文中の「厭離・離欲・止滅・平安・英智・正覚・安らぎ」とは釈迦の目指していた解脱の境地のことでしょう。次に釈迦はウッダカ・ラーマプッタ仙人の弟子になります。

「この仙人は、非想非非想処こそが最高の境地で、アーラーラ・カーラーマ仙人と同じように、瞑想によって到達できると説いていた。この境地も、のちの仏教では、四無色定のうちの第四番目に数えられているものである。

文字通りには、『識別するのでもなく、識別しないのでもない、という境地』というほどの意味である。

先の無所有処では、『識別作用は消えた』というかたちでまだかすかに残存していた識別作用そのものが、ここでは完全に消え去る、つまり、識別する、しないがまったく意味をなさないほどにまで心のはたらきが完全に停止する、ということなのであろう。これも感情や思考の停止を目指す瞑想で得られる境地である。」(「ブッダが考えたこと  これが最初の仏教だ」)

ここで釈迦は天界の最上の感覚を体験します。 「非想非非想処」といいますが、別名有頂天(うちょうてん)ともいい、欲界・色界・無色界の三界のうち、無色界の最高の処を指します。

この天に体験する者は、倶舎論には「下地の如き麁想(そそう)なきを以て「非想」、または「非有想」といい、しかも、なお細想なきに非(あら)ざるを以て「非非想」、または「非無想」という。非有想なるが為に外道(仏教以外)は、この天処を以て真の涅槃処とし、非無想なるが為に内道を説く仏教においては、なお、これを生死の境とする。」とあります。

なお、漢訳法華経では三界の第2位に位置する色界の第18最高の天である色究竟天を最高(有頂と訳し有頂天と混同)と翻訳したために後々大きな誤解を生んだことが近年の研究でわかっています。