正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

三昧境について:7

大乗経典で初期仏教の解脱と違って強調されていることは、「菩薩はその衆生済度の誓願ゆえに、自ら仏となるより先に、すべての衆生を彼岸にわたそうと努める存在である」ということです。「智慧によって、生死に住せず、慈悲によって、涅槃に住せず」といわれ、生死にも涅槃にもとどまらないがゆえに、このような菩薩のあり方を「無住処涅槃」と称しています。

釈迦以前のインドの思想家やバラモン達も理想の境地を涅槃と呼び、修行や苦行によってそこに到達できると考えたが、それは色界定や無色界定などのいろいろの禅定の状態であり、一時的な無念無想の境地でしかなかった。

これを否定して釈迦は身体への執着を断ち切り一切の煩悩が吹き消された滅尽した状態(ニルヴァーナ)こそが涅槃寂静の世界であるとし、三界へ二度と生まれることのない解脱を獲得された。

釈迦滅後、時代が下ると徐々にその定義がズレて滅尽とは実存的に存在する世界の意味だと実体化し、人の世を逃避して空寂の境地に入り人生を全く顧みない灰身滅智(身を灰にし智を滅する意。身心ともまったくの無に帰すること)の境地を涅槃とみなした。これが新しい仏教思想を起こす一つでもあるとされています。

阿羅漢・独覚の悟りの構造→①阿羅漢・独覚は「わが生は尽きた」(我生已尽=輪廻への生存の滅)と自覚するが、この場合の二度と起きない死(輪廻の滅)とは「分段死」のことであって、それは三界内における死で、これが無くなれば確かに三界内への再生はなくなるが、未だ惑いの根源を絶っていないので、究極の悟りとはいえない。

つまり、阿羅漢・独覚・自在力を得た菩薩たち(=意志の力で生まれた身体――意生身または意成身――をもつ聖者たち)は分段死を越えてはいるが、惑いの根源を絶つことによって初めて乗り越えられるところの「不思議変易死」については、引き続きこれを保持しているのである。これは彼らが菩提の座に上るまではこれを免れ得ないのである(声聞・独覚の悟りと大乗の悟り)

ただしこれは勝鬘経という大乗教団側からみた初期仏教=小乗教という 間違った解釈です、日本へはこれがそのまま伝わって原始仏教=小乗教となったようです。惑いの根源を小乗は断っていないと書いていますが、それでは非想非非想天に居ることになるので、涅槃では有りません。