正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

浄土はどこにある?:7

今度は往く浄土についての説明を同じく田村芳郎氏の著作である「絶対の真理」から見てみたいと思います。

浄土は、本来、この世界に対立してどこそこにあるとか、未来のかなたにあるとかいう、そういう時間・空間をこえたものである。いいかえれば、浄土は単にこの世界そのものでもないが、単にこの世界に対立して存するものでもない。これを積極的に表現すれば、それは、われわれの前に現在する浄土であるとともに、死ぬことによっておもむく浄土でもある。逆に、死後生まれゆく浄土は、現世において、すでに、その中に生きてある浄土である。このある浄土とゆく浄土とは、仏の側からは、全く一なるものである。けだし、仏にあっては、未来は常に永遠の現在(本時)であり、彼岸は常に永遠の此岸(本土)であるといいうるからである。本時とか本土ということは、『法華玄義』巻第七上などで強調されている。

われわれについていえば、有限・相対の種々の衣をまとって生活せねばならないこの人生にあるあいだは、信によって無限・絶対の浄土にひたる(ある浄土)のであり、死の門をくぐるときには、それらの衣をぬぎすてて、その浄土におもむく(ゆく浄土)のである。こういうわけで、浄土が来世に設定される。(田村芳明氏・絶対の真理|天台)

田村氏は顕本法華宗の信者でも有りましたが、非常に客観的に法華思想を論述されて3つの浄土を天台思想から分類されています。日蓮の浄土観については以下のように考察されています。

日蓮に例をとれば、『立正安国論』(三十九歳)の述作ごろまでは、絶対的一元論に立って現実を肯定し、ある浄土を主張し、それ以後、佐渡流罪(五十歳)にかけては、受難を契機としてしだいに現実対決的、社会改革的となり、なる浄土を強調し、身延退隠(五十三歳)以後は、仏国土建設は未来に託し、みずからはゆく浄土を志向するにいたっている。(田村芳明氏・絶対の真理|天台)

その往く浄土の国土とは日蓮遺文では寂光土と言われています。