正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

三昧境について:11

比較的初期仏教の修行形態と共通点が多い禅宗の「座禅」に見られる修行結果「真如三昧」を参考に見てみます。

禅宗では天台宗の止観を参考として座禅の心得を習得するために「止」と「観」を実践します。実際に自利(自分の苦を解決)、利他(他者の苦を救う)が達成される坐禅には、この二つの要素が含まれているとします。

「止」は、思考(分別)などを止めて、もの、こころ、苦などを観察していることで、「観」は、自己・他者の苦の解決のための智慧を開発します。

「この止観は、仏教思想史上、どのように考えられようか。止観そのものは、原始仏教でやや遅れて説かれ始めたようで、以降、アビダルマ論書においても、大乗の諸経論においても、様々に説かれてきた。止観の最も簡潔な定義は、『宝雲経』の、止は心一境性、観は「如実観察」とするものであろう。この止観理解は、インド仏教史を貫いているようであり、『起信論』の止観も基本的にこれにつらなると見ることができる。」(竹村牧男・大乗起信論読釈)

初期仏教でも「八正道」の中に、正念を説きますが、禅でも「正念」が強調されています。正しく念ずるのは正しく思惟するということです。

「止」(観と併習して)が熟してくると、真如三昧が現成する、という。これは、見性体験(無生法忍である。道元が批判する『六祖壇経』の「見性」ではない)のようであるが、研究の余地がある。
「対象界の虚妄を知るとき、対象界を縁じようとする心はやむ。しかしそれは必ずしも持続的でない。そこでそういう心の本来のあり方を坐の時は勿論、いついかなる時でも久しく習っていると、やがて心が心の本来のあり方のままに、統一されてくる。そしてそれをさらに進めると、宇宙の実相である真如三昧にほとんど近似的になり、やがて真如三昧が現成する、というのである。
こうして、真如三昧が現成したとき、深く煩悩をおさえ、信心が増長して、速やかに不退に入る。すなわち十住の初住に上り、正定聚に入るのである。」(竹村牧男・大乗起信論読釈)

この真如三昧状態の三昧はインドではサマタ、サマディーと呼ばれ、意識をただ一点に集中させ続けることによって、瞑想の対象と一体となり、究極の智慧そのものとなる「心一境性」は初期仏教の瞑想「一境性」とやり方と同じです。

題目や念仏の集中して対象と一体となる念仏三昧や題目三昧もこの「一境性」を模したものです。