正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

三昧境について:17

この「識」を整理しますと我々が何か事物を認識する際に眼・耳・鼻・舌・身・意の六識で確認します。この認識器官だけでなく唯識法相では、その根底にある記憶・予測をとおして総合判断する第七識「末那識」(まなしき)も含めて対象世界を捉えていると説きます。通常ここまでが自我の範囲です。

さらに七識「末那識」までは、死とともに無くなってしまいますが、その下の八識・阿頼耶識(アラヤ識)は生の状態の時に蓄えられた、体験・記憶・性格をそのまま保存して、来世へと流れつづけていくことになります。蓄蔵という意味も持つ阿頼耶識は、一個人の枠組みを超えて、世界の他の生命体の貯蔵された意識が合流してると、説かれています。ユングの集合無意識に近い概念でしょう。

このままでは世界中の善悪の意識が流れ込んできて貯蔵ばかりです、これでは悟りへと向かわないので第九識の「阿摩羅識」(あまらしき)は根本浄識とされこれを仏性乃至如来蔵とするのですが、真言宗ではさらにこの下に識を作ります。

日蓮系ではこの九識を以下のように説いて心王とします。

「此の九識法性とは、如何なる所の法界を指すや。法界とは十界なり。十界即諸法なり、此の諸法の当体、本有の妙法蓮華経なり。此の重に迷う衆生のために一仏現じて分別説三するは、九識本法の都を立出するなり。さて終に本の九識に引入する。それを法華経とは云うなり」(日向記)

「此の御本尊全く余所(よそ)に求むる事なかれ。只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱なうる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり」(日女御前返事)

ところが、天台大師や日蓮唯識の阿摩羅識を法華経の解釈に持って来たのは、法華経だけでは、心の分析に不十分だという証拠です。

特に日蓮の説は法華経にはまったく根拠がなく、天台宗で取り入れた九識論をそのまま流用して、「九識を心地に持ち六識にて修行」というものの、その根拠は法華経にはありません。どうして法華経で第9阿摩羅識を認識制御できるようになるのか、それを「信」に還元するだけでまったく説明がありません。