正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

三昧境について:18

インドで先に誕生した中観派は龍樹の「空」の思想が中核ですが、中論で説かれた縁起性が唯識派では依他起相(他に依存する存在形態)と遍計所執相(仮構された存在形態)となって要素が増えています。

共に空を表しているのですが、中論では仮に和合した縁起に中身はない部分に重点がおかれ、唯識では仮に和合した存在にスポットが当てられてます。
中観派では存在は無常で、それを習慣上の言葉で錯覚して実在、リアルなものとして捉えているから妄想が出てくるのだ、という切り口。
唯識では、存在形態は内面の心(識)の表象に過ぎないのであり、深層の阿頼耶識などが全ての物を生み出す原因である「種子(しゅじ)」が蓄積(記憶が刻まれていく)事によって、それらが縁を得て産み出されているが、本質は幻のようなものであると説きます。
両派の最大の差異は、中論では膨大な言語の過失を上げるものの、論書に示されなかった修行法が、瑜伽唯識派では心を内観する行為を提唱し修行法を確立しました、しかしこの差異も最終的には統合されていきます。

インドで後期大乗(秘密仏教)にあたる密教で、中観と唯識は融合され曼荼羅として結実します。中国では法相宗華厳宗天台宗として論争が有りますが、共に影響を受けて天台大師は摩訶止観理論へと融合していきます。

声を聞くなかに観を修するとはどのようなことか。次のように考えるのがよい。聞くところの声が空であり無所有であることに随えば、ただ感覚器官と対象とが和合して、耳の感覚機能を生じているだけである。つぎに意識が生じて、強制的に分別を起こしている。これによってすぐにあらゆる煩悩や善悪などの法が存在する、だから声を聞くと名づける。
(通常とは)反対に声を聞く心を観て、姿かたち(相貌)は見ない。だから、聞く者も一切の法も、畢竟空寂であると知るのがよい。これを観を修すると名づける。(摩訶止観)

ご覧のように虚妄分別の有様を内観を通して分析している様子が説かれています。判断、了承、分別の分別を起こさないこと(無分別智)を目指した観察法(禅法)を「観」と捉えていることが分かります。