正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

三昧境について:19

上座仏教で修される瞑想と大乗仏教の瞑想は「止と観」という修行アプローチで同じ括りですが、少しずつ違うようです。例えば座禅の修行について書かれた坐禅三昧経について両流に詳しい蓑輪顕量氏は以下のように考察されています。

『坐禅三昧経』は、中国で広く受容されることになるのですが、実際の内容は、止に対する言及が多いと言わざるを得ません。上座系の瞑想を最初に示し、後に大乗系の瞑想を付加 していますが、その全体は、とても興味深いものです。

『坐禅三昧経』の示す瞑想 坐禅三昧経は二巻よりなる小部の経典です。初巻は、瞑想を実習しようとする人々にそれぞれ性格の違いがあり、それに応じて業処が決められることが記されています。あれこれと考えてしまいノイローゼがちの人には入息出息の観察を、瞋恚の多い人には慈悲観を、などのよう に出て参ります。

業処がそれぞれどのような性格の人に合っているのかという視点が見られま す。これは実際には上座部系の瞑想の中にも出てきますので、別に新しいことではありません。 さらに、修行の階位と関連が登場します。巻上の最後の部分に「等分(貪瞋痴が同じくらいず つ存在する)を治する法門」というのが登場しますが、そこで観察の対象になっているものは、 仏の三十二相と八十種好です。その最後に次のように出てきます。


  心を専らにして仏を念じなさい。(中略)このように、
  乱れなければ、
  この時、一仏、二 仏乃至十方無量世界の仏たちの色身を
  見ます。(大正一五、二七七上)

 

ここでは明らかに三十二相八十種好という仏の身体的特徴から仏そのものを見ることになる とされています。仏の身体的な特徴から仏の姿そのものが心中に浮かび上がると言うのです。 巻下になりますと、観として四念処の観察が出てきます。言葉は「四念止の観」ですが、念を そこに留めるという意味合いです。その内容は次のようなものです。


  身は種々にして様々な苦が多い、因縁より生じるが故に
  無常であり、種々に悩むが故に苦であり、
  身に三十六物があるので不浄であり、自在を得ることが
  出来ないので無我であると、このように観察することを
  習う。(中略)これを身念止という。(大正一五、二七八下)

 

身体に対して、それぞれが無常、苦、不浄、無我であると観ていくことが観であると説明され ます。次に感受、心の働き、法にも適用され、自在ではないから無主、無主であるから空であ るとの理解が「心念止」の中で語られ、無常、苦、不浄、無我は、無常、苦、空、無我という 表現に取って代わられます。つまり、観察の対象である身、受、心、法において、無常、苦、空、無我であると観察することが、観として語られています。このような観察の仕方が語られることは、大乗の特徴の一つと考えられます。