正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

三昧境について:25

さて、横道それましたが、原始仏教では日常の生活の中では常に頭脳に言葉が渦巻いており、それを気づくときも脳内で言葉が介在しています。ですが、言葉で言葉を制しても気づきは可能であり、判断、了承、分別を止めることができます。

これを釈尊「第二の矢をうけない」として、念につながって妄想が連鎖していくことを制止することを教えています。

「不幸にして、矢に打たれた人があるとしよう。ここで、次にどうするのかに関して、二種に分かれるだろう。一人は、慌てふためき、第二の矢を受けてしまう人。もう一人は、矢に打たれても痛みに耐え動揺せず、第二の矢をかわすことの出来る人である」 (サンユッタ・ニカーヤ)

明らかならない智を無知といいますが、仏教では無明とも言います。外界の刺激に合わせて無明から噴出してくる妄想こそ意識に登ることで業となり苦しみ輪廻の元となります。

「無明こそ最大の咎である。それを除き去れ。」(ダンマパダ)

「忽然として念の起こるを名づけて無明と為す。」(大乗起信論

大乗と初期仏典の差はありますが、これらはおなじ事を言い当てています。 日本の曹洞宗道元も「忽然念起」ということを言います。

我々の身体(尽十方界真実人体)が生命活動を営んでいる証拠に、我々の脳裡に自然に何らかの思い(念)、色々の考え等が忽然と浮かんで来る(忽然念起)。
最初に浮かんでくる念は、人間が如何ともし難い自然の生命活動の働きであり、決して妄念などではなく正念である。
ただ初念が浮かんでも、二念を追わず正身端坐を続ける。
(中略)ところがその最初の念が消えず、そのまま次々思い(次念以降)を追い続ける、例えば浮かんだ念を捉まえて思いを巡らし始めると、それは既に考え事(思考)であり、自我意識が活動を始めているのであり、もはや厳密には坐禅ではなく、生命本来の在り方から乖離し始めている。(正法眼蔵解説・沙門尾崎正覚氏)

蓑輪顕量氏は「心が判断、了承、分別のところで、一度止まることをも意味します。釈尊の言葉で 言えば、「第二の矢がない」になりましょうが、いやな言葉を聞いても、その言葉を理解する だけに留まり、いやな気持ちを起こさない、美しいものをみても、美しいと感じるだけで、手に入れたいと思い悩むようなことはなくなっていきます。
ここには明らかに、悩み苦しみからの脱却が可能になっています。」
と解説しています。