正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

浄土はどこにある?:2

浄土系の信仰の一番の大事は、こういうことだそうです。

★衆生が臨終時に心に迷いを生じないように阿弥陀仏が来迎する。
★衆生が病苦の中で死に臨むときに、境界愛(妻子親族、財産に対する執着)・自体愛(自らの身体に対する執着)・当生愛(死後 どうなってしまうのか)という三種の愛心が起こるものの、阿弥陀仏の来迎によって帰敬の心の外は起こらず、三種の愛心は亡ぼされ再び起こることはない。
阿弥陀仏の来迎によって衆生は「心不乱」と「心不顛倒」という正念の状態に入らせていただくのである。
★衆生の心が臨終時に正念であるから阿弥陀仏が来迎するのではなく、阿弥陀仏の来迎によって臨終時に正念になるのである。在世の間に念仏を修した者は、臨終に必ず来迎をいただき、たちまちに正念に住することができる。ところが今時の行者は、そのことをわきまえずに尋常の行を捨て 怯弱の心を起こし、はるか臨終の時を期して正念を祈る。これは最も道理に合わないことである。

一言で言えば絶対他力阿弥陀仏の誓願に任せることが肝要だそうで「正念来迎」の徹底で来世は浄土に往生するというのですが、なかなか任せきるというのが難しいようですね。

故・法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候(そうら)いしことを、たしかにうけたまわり候いし(今は亡き法然聖人が「浄土の教えに生きる人は愚者になって往生するのです」と言われたことを確かにお聞きしました)

これは法然の弟子・親鸞が師匠から聞いた言葉だそうで、こうすればこうなるとかの計らいを捨てて一途に信仰に没頭するのが至極だそうです。これもそうです。

凡夫」といふは、無明煩悩(むみょうぼんのう)われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえずと、水火二河(すいかにが)のたとへにあらはれたり。(二念多念文意)

大意は普通に生きていると怒りや腹立ちの心が絶え間なく起こり、命が終わろうとするその時まで消えない、そんな本性から脱出できないので四悪趣を彷徨うという意でしょうか。原始仏教で言えば預流果に至ると強烈な我の執着は消えるそうです。