正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

浄土はどこにある?:7

同じく田村芳郎氏の著作から浄土観をもう少し引用してみたいと思います。

浄土は、本来、この世界に対立してどこそこにあるとか、未来のかなたにあるとかいう、そういう時間・空間をこえたものである。いいかえれば、浄土は単にこの世界そのものでもないが、単にこの世界に対立して存するものでもない。これを積極的に表現すれば、それは、われわれの前に現在する浄土であるとともに、死ぬことによっておもむく浄土でもある。逆に、死後生まれゆく浄土は、現世において、すでに、その中に生きてある浄土である。このある浄土とゆく浄土とは、仏の側からは、全く一なるものである。けだし、仏にあっては、未来は常に永遠の現在(本時)であり、彼岸は常に永遠の此岸(本土)であるといいうるからである。本時とか本土ということは、『法華玄義』巻第七上などで強調されている。(田村芳明氏・絶対の真理|天台)

この理想的国土=浄土ですが、岩波・仏教辞典によりますと語源はやはり中国で、しかも漢訳無量寿経の「清浄国土」を2字につづめた言葉だそうです。

「清浄」とは『史記』始皇本紀に「(国土)内外清浄」とある。また「浄刹(じょうせつ)」ともいう。この場合の「刹(せつ)」は、サンスクリット語kSetra(土)の音写。浄福な世界のことで、これにたいして、現実の世界は「穢土(えど)」と称された。穢土を凡夫の世界とすれば、浄土は仏の世界(仏界、仏国、仏刹)となる。

浄土観について、いま一つ存する。それは、よく浄仏国土ということばで表現されるものである。つまり、仏土を浄めるということであり、浄土の現実実践であり、浄土を現実社会の中に実現するということである。社会の浄土化である。

これを一口に、なる浄土といえよう。人間としてこの世に生をうけた意義・目的、あるいはなすべき努力、仏教用語でいえば菩薩行は、この浄仏国土にあるとされる。『維摩経』に、「諸仏の国土の永寂如空なるを観ずと雖も、而も種々の清浄の仏土を現ずる、是れ菩薩の行なり」(「問疾品」第五)と説かれ、『法華経』においても、「仏土を浄めんが為の故に、常に勤め精進し、衆生を教化せん」(「五百弟子受記品」第八)などというところである。(田村芳明氏・絶対の真理|天台)

日蓮系で浄土宗を否定しながら肝心の浄土の根拠が無量寿経というのはかなり皮肉なことです。