正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

浄土はどこにある?:10

日蓮遺文の「衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり」(一生成仏抄)の元ネタは維摩経(上巻)仏国品で、ここには「心浄土浄」として心がきよまればすむ世界も浄(きよ)まる、悟りを開けばこの娑婆世界が浄土となる、とあります。

もし菩薩が浄土を建立(こんりゅう)したいと欲するならば、まず自らの 心を浄らかにしなければならない。その心が浄らかであるときに仏土(仏 国土)も浄らかとなり、そこに「浄土」が実現される。(維摩経巻・仏国品)

これは「心浄ければ則ち仏土浄し」として、大乗仏教における「浄土」の考え方が詳しく説明されており、それが『維摩経』の全体を貫く中心的なテーマが説かれています。

法華経絶対と言いながら、こういう具体的なテーマは説かれておらず、日蓮はあちらこちらからつまみ食いして、論を説いてたことがわかります。

その時、舍利弗、仏の威神(いじん)を承けて、この念(おもい)を作(な)さく、『もし菩薩が心浄ければ、すなわち仏土浄しとならば、我が世尊、もと菩薩たりし時、意(こころ)、豈(あに)不浄ならんや、しかもこの仏土の不浄なること、かくの如き。』

仏、その念(おもい)を知り、すなわち、これに告げて言(の)たまわく、『意に於いて云何(いかん)。日月は豈(あに)不浄ならんや、しかも盲者は見ず。

『舍利弗、衆生の罪の故に、如来の仏土の荘厳なるを見ず。如来の咎には非ず。舍利弗、我がこの土(ど)は浄けれど、汝は見ず』(維摩経巻・仏国品)

維摩経にいう「心が浄らか」であるとは「空」の発得によって、個々の執われを離れた心のあり方をいい。「浄土」(仏国土)とは、実はこの現実世界を指すと説いています。娑婆即寂光とは「空」の智慧によって「心が浄らか」になったときに、この現実世界が「浄土」として顕現してくるが、逆に煩悩にまみれ「心が穢れる」ときには、それが「穢土」として現れてくる、ということを維摩経は語っています。