正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

無常にならない仏教

大乗仏教と初期仏教の差は回向という発想でも比較しましたが、仏の概念でもかなり違います。初期仏教ではこの忌まわしい六道の世界を永遠に輪廻することを断ち切るために解脱(涅槃・ニルヴァーナ)に入り、もうこの世に解脱者の再来はないのです。

しかし、大乗仏教では「すべては無常である、何ひとつ永続するものはない」といいながらあくまでもこの世に関係する救済者を設定して、その人の慈悲にすがろうと仏=永遠の存在者で有ることを望んでいます。

普賢菩薩行願賛・漢文書き下し文】
諸仏にして若し涅槃を示さんと欲せば、我は悉く(ことごとく)
至誠(しじょう)にして勧請(かんじょう)したてまつる。
唯だ(ただ)願わくは久しく、刹(くに)の塵(じん)ほどの
(多くの)劫のあいだ(この世に)住まりて(とどまりて)、
一切の諸の衆生を利楽(りらく)したまわんことを。

中村元氏の解説】
これは、仏教史における驚くべき転換です。
もともとニルヴァーナを求め、ニルヴァーナに入った人がブッダなのです。
ところがいまここでは、ニルヴァーナに入らないでくださいと
いうのですから、正反対になったわけです。(華厳経・般若三蔵訳「普賢菩薩行願賛」)

これが端的でわかりやすいのですが、法華経でも如来寿量品では、久遠実成の釈尊を中心として、その施化に預かりましょうという設定です。

「我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり 常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり 衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く 我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見ざらしむ」(如来寿量品第十六)