正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

捨身思想と日蓮

捨身と引き換えに仏果を得る比喩で多く見られるのは日蓮さんですね、法華経の為に命を捨てれば罪障消滅、福徳万来で来世は成仏という公式です。

夫れ常啼(じょうたい)菩薩は東に向つて般若を求め、善財(ぜんざい)童子は南に向いて華厳を得る雪山(せっせん)の小児は半偈に身を投げ楽法梵士(ぎょうぼうぼんじ)は一偈に皮を剥(は)ぐ。

此等は皆上聖大人なり其の迹(あと)を撿(かんが)うるに地・住(じゅう)に居(こ)し其の本を尋ぬれば等妙(とうみょう)なるのみ・身は八熱に入つて火坑(かきょう)三昧を得・心は八寒に入つて清凉三昧を証し身心共に苦無し、譬えば矢を放つて虚空(こくう)を射(い)石を握つて水に投ずるが如し。(建治二年三月・忘持経事:与富木常忍)

常啼菩薩や善財菩薩の故事は上々の聖人のされることで、その本地は妙覚(菩薩の五十二位・四十二地の最上位で、菩薩が修行して到達する最後の階位)に等しいからだということを書いてますが、そういいながらこんな遺文を書いてます。

◎詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ(開目抄)

◎仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる、既に経文のごとく悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと(佐渡御勘気抄)

こういうパラドックスな論法は日蓮遺文によく見られる手法です。般若経では捨身を行った常啼菩薩についてはダルモードガダ菩薩が現れ、この肝要を説きます。

およそ煩悩を離れることはどこかから来るのでもなく、どこかへ行くのでもない。そしてその「煩悩を離れること」がすなわち如来なのである。
およそ煩悩の滅尽はどこかから来るのでもなく、どこかへ行くのでもない。そしてその「煩悩の滅尽」がすなわち如来なのである。(般若経

こういう煩悩を離れる、滅尽するという思想は大乗仏典が発達するとドンドン欲望肯定へと傾いていきます。残念。