正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

断食効果

断食行と法華経読誦の効果は験力に現れるようで中国の「高僧伝・続高僧伝」には修行者の験力が名前を上げて綴られています。
譬えば一日で三百里を歩いたという単道開(敦煌出身の僧侶、穀断ち修行を敢行)、同じく一日に五百里を歩いた渉公(前秦録に沙(渉)公は西域の沙門也とある、不思議な験力を誇った)は、予言をよくした上、旱魃の時にあたっては龍を鉢の中に呼込み、雨を降らせたりした。
同じく曇超もまた、龍に説法を行って雨を降らせ、明浄もまた請雨に験があった。
普明は治病に、また慈藏は盲人の眼を開けるのに験があったという。

こうした苦行は初期仏教の釈迦が禁止し、中道を説いたはずなのですが、なぜか穀断ち食断ちである種の効果を得られるものと日本でも山林に入って断食はかなり励行されたようです。

ある特定の宗教的行為には、必ずそれを下支えする宗教的観念、思想 がある。それでは、中国、日本と共通して記録される仏教の種々の断食行はい かなる思想によって枠付けられているのであろうか。
まず、この考察の端緒を開いてくれる『法華験記』第9話の応照法師の記述を見てみたい。応照は日本で初めて焼身行を行った人物とされるが、彼が行った断穀、断塩行は「内外の不浄を清め、焼身の方便(準備)」の目的で行われたと記されている。

この「内外の不浄」について種々の解釈が可能であろうが、 一つの解釈として身体自体の不浄とともに、罪過や悪業などの所在する、業相続の主体である自己の内的存在(いわゆる「心」と表現しうるもの)の不浄の清浄化もその視野に入っていると捉えることができるのではないか。(法華経と苦行と滅罪・荒井しのぶ)

自分の身を痛めることで過去世からの罪業を消滅できると考えていたようですね。煩悩具縛の身=不浄を清浄化できる方法が断食などの苦行ということですね。 

応照法師に「焼身行」とありますが、断食や穀断ちする行為は臨死体験実行中と言えなくもないです。