正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

断食の思想背景

肉食や女犯の例は中国、日本ともに仏教伝来から特に珍しいことではなく、国が仏教僧の行体を管理されるくらい杜撰なものだったようですが、それでも一部には断食行や苦行を行っていた僧侶はいたようです。

日本と中国の断食に至る僧侶の考え方を比較してみます。まず中国の僧侶の場合。

『続高僧伝』の僧達の伝中に「身を念ずる に苦器と為し、維持すべき事難しとす。(略)裁約を行い、苓を餌し粒を断ず」とある。ここでも身体が「苦」の「器」であると捉えられ、その制御のためにキノコ類である「苓」を食べ、穀物である「粒」をとらない 食制限を行うものとしている。

また智満の伝では「節食」「断穀」は「己を潔め、 清貞たること、氷霜の喩えを取る」(同、583下)という自己を浄化する文脈で 語られている。

荊州の尼姉妹の伝では、焼身の準備段階として「断粒」を行っているが、彼女たちの身体観については「深く形器を厭う。倶に身を捨てんと 欲す」とあって、身体を厭うべき器と捉えている。

同じく断食を準備段階とする焼身を行った大志も、「余、悪業を嘆ずるに乃ち此の如し。要(かなら)ず此の形骸を尽し、正教を伸明するのみ」(同、682中)として、「悪業」 をその内実とする「形骸」としてその身体を見ていることがわかる。(法華経と苦行と滅罪・荒井しのぶ)

次に日本の断食僧の場合です。

応照は日本で初めて焼身行を行った人物とされるが、彼が行っ た断穀、断塩行は「内外の不浄を清め、焼身の方便(準備)」の目的で行われたと記されている。
この「内外の不浄」について種々の解釈が可能であろうが、 一つの解釈として身体自体の不浄とともに、罪過や悪業などの所在する、業相続の主体である自己の内的存在(いわゆる「心」と表現しうるもの)の不浄の清浄化もその視野に入っていると捉えることができるのではないか。こうした解釈 を支える理由として、『法華験記』第49話で良算聖が述べるその不浄観があげられる。
良算は「我が身は五陰の仮舎にして、四顛倒の鬼、常にその中に住し、我が心を誑かして、衆くの罪を造らしむ」と述べている。

これは、無常の仮舎である「身」と、妄見に誑かされ罪をつくる「心」の二重構造をもって自身の不浄性を明らかにするものであろう。

また「煩悩不浄無常垢穢の身体」とも述べて いるように、身体の不浄性は煩悩という内的存在の不浄性と関連付けられている。(法華経と苦行と滅罪・荒井しのぶ)