正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

不浄をどうする

大乗仏教は初期仏教(小乗)と違って現世肯定、欲望肯定主義のはずですが、中国の修行者の一部では法華経や涅槃経の滅罪を苦行に求めていたようです。

身の不浄を例えば過去以来の罪過として罪、苦、悪業として捉え、苦行をすることで、内的変化つまり罪障消滅を計り、清浄化(菩提への接近)することで成仏するという過程を自らに課していたような考えであったようです。

『続高僧伝』の僧達の伝中に「身を念ずるに苦器と為し、維持すべき事難しとす。(略)裁約を行い、苓を餌し粒を断ず」ある。

ここでも身体が「苦」の「器」であると捉えられ、その制御のためにキノコ類である「苓」を食べ、穀物である「粒」をとらない食制限を行うものとしている。また智満の伝では「節食」「断穀」は「己を潔め、 清貞たること、氷霜の喩えを取る」という自己を浄化する文脈で語られている。

荊州の尼姉妹の伝では、燒身の準備段階として「断粒」を行っ ているが、彼女たちの身体観については「深く形器を厭う。倶に身を捨てんと 欲す」とあって、身体を厭うべき器と捉えている。同じく断食を 準備段階とする焼身を行った大志も、「余悪業を嘆ずるに乃ち此の如し。要(かなら)ず此の形骸を尽し、正教を伸明するのみ」として、「悪業」 をその内実とする「形骸」としてその身体を見ていることがわかる。

まるでインドの釈迦以前のバラモンの修行のような様相ですけど、 苦行を廃し中道を唱えた釈迦の骨髄は見受けられないようです。日蓮遺文にも似たような思想は散見できます。

■此の経をききうくる(聞き受くる)人は多し、まことに聞き受くる如くに大難来れども憶持不忘の人は希(まれ)なるなり、受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり、此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり、「則為疾得・無上仏道」は疑なし、三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持とは云うなり(四条金吾殿御返事・此経難持御書)

妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり (御義口伝 )

■其の上日蓮の身並びに弟子又過去謗法の重罪未だ尽きざるの上、現在多年の間謗法の者と為り、亦謗法の国に生る。当時信心深からざらんか、豈之を脱れんや。(除病御書)

■雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人・他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや(佐渡御書

こういうところにも大陸から受け継がれてきた不浄の身を転換する修行という思想は見えますね。