正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

正宗系マゾ信仰のルーツ

正宗系ではよく不惜身命の信心によって仏法を会得できた例として、楽法梵志・釈迦菩薩・雪山童子・薬王菩薩・不軽菩薩・須頭檀王の修行を褒め称えていますが、その根底に難行苦行があるところを隠して、易行のみスポットを当ててます。

こうした一つの解釈として身体自体の不浄とともに、罪過や悪業などの所在する業相の主体である自己を他人への折伏へと転化することで仏性顕現(清浄化)がはかれるという変な修行観があります。

そのルーツは法華験記や先に見た断食や穀断ちとして身の不浄を厭う感覚と何ら変わりません。「法華験記」の第49話に登場する良算の例を見てみます。

良算は「我が身は五陰の仮舎にして、四顛倒の鬼、常にその中に住し、我が心を誑かして、衆くの罪を造らしむ」と述べている。これは、無常の仮舎であ る「身」と、妄見に誑かされ罪をつくる「心」の二重構造をもって自身の不浄性を明らかにするものであろう。

また「煩悩不浄無常垢穢の身体」とも述べているように、身体の不浄性は煩悩という内的存在の不浄性と関連付けられている。したがって、このような不浄観念が「(罪を重ねてゆく身体を、良い服や食べ物で)更に覆い養はず」というように、断穀断塩、蔬食という、生体に対する抑圧的行為に結びついていると考えられよう。す

なわち、断食行という苦行は、罪をつくる主体である自己の内的存在の不浄性に対峙し、浄化するため、すなわち滅罪のために、その内的存在の「仮舎」であるところの身体を極限まで制限し抑圧すること、また捨身行者にとっては身体それ自体の損壊をすら目的とした宗教行動と考えられる。(法華経と苦行と滅罪・荒井しのぶ氏)

 この文章、「断穀断塩、蔬食」を折伏と変えることで十分正宗系に通用します。つまり日蓮の過激な折伏観はこうした連綿と流れてきた難行苦行的なことを経ないと罪障が落ちないと考える修行と同じルーツを持つものといえます。