正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

ホケキョの効能

法華経が日本に浸透した一つには、全国に設置された寺に護国三部経の一つとして法華経=滅罪経という位置づけが広く分布したためと勝浦令子氏の「法華滅罪之寺と洛陽安国寺法華道場」にて論証されています。

それによりますと、推古朝の時代に聖徳太子が、帝のために「勝鬘経」を講じ、ついで「法華経」を講じた講義録は「三経義疏」(615年)と呼ばれる経典の注釈書を著したことと言われていますが、実は国家の行事として『法華経』が書写、読誦、講説された事は表の歴史に長い間あらわれる事がなく、太子滅後・半世紀以上過ぎた神亀3(726)年8月頃、元正上皇不予のために行なった法華経書写で、ようやく表に取り上げられるようになったそうです。

法華経』に焦点をあてて正史、正倉院文書などの歴史的記録を見て みると、一つ疑問として浮かび上がる事がある。(中略)

以降『法華経』関連の記事は、天平6(734)年11月に定められた『法華経』または『最勝王経』のいずれかの読誦と浄行3年以上を必須とする得度の制、天平9(737) 年1月『法華経』転経(橘三千代忌日)、天平12(740)年6月『法華経』十部書写、 七重塔建立を諸国に命じる詔、天平13(741)年2月諸国に『最勝王経』『法華経』を写させる詔、同年3月国分寺建立の詔(僧寺「金光明四天王護国之寺」、尼寺「法華滅罪之寺」の詔)等と、頻出し始める。(日本古代の法華経滅罪信仰の形成と民間への浸透について・荒井しのぶ氏)

つまり、法華経がその経典の真価を庶民も含めて認知されていったのは、聖徳太子に関係なく国家政策(国分寺の設置)と平行して法華=滅罪の経として認知されていったというプロセスが歴史的に有るということです。

滅罪と仏法敵対悪報譚は朝廷に対して随順する人には滅罪、敵対する人には悪報という図式を仏教教化を借りて暗喩させていったということです。法華経は反抗する土民や氏族に国家が強いた平定施策のツールということです。