正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

これもホケキョのご利益

日蓮さんの法華経一つで万事オッケー論は、立正安国論始め様々に説かれていますが、代表的な遺文は曽谷殿御返事です。

聖徳太子は教主釈尊を御本尊として法華経一切経をもんしよ(文書)として両方のせうぶ(勝負)ありしに・ついには神はまけ(負け)仏はかたせ(勝たせ)給いて神国はじめて仏国となりぬ、天竺・漢土の例のごとし、今此三界・皆是我有の経文あらはれさせ給うべき序なり、欽明より桓武にいたるまで二十よ(余)代・二百六十余年が間・仏を大王とし神を臣として世ををさめ(治め)給いしに仏教はすぐれ神はをとりたり(劣りたり)しかども未だよ(世)をさまる(治まる)事なし。
いかなる事にやと・うたがはりし程に桓武の御宇に伝教大師と申す聖人出来して勘えて云く、神はまけ仏はかたせ(勝たせ)給いぬ、仏は大王・神は臣かなれば上下あひついで・れいぎ(礼儀)ただしければ国中をさまる(治まる)べしと・をもふ(思う)に国のしづか(静か)ならざる事ふしん(不審)なるゆへに一切経をかんがへて候へば道理にて候けるぞ(曾谷殿御返事 )

ところがですね、この聖徳太子の例はそういう事実もなく、また法華経が治世の要典として国分寺で流布しながら悪霊疾病飢饉は幾度も起こったらしいです。

日本における法華経受容史の重要な節目となる天平年間は、また厄災 が重なり続いた時期でもあった。

とりわけ、天平4年から始まった旱魃、飢饉、疫病の流行は翌年、翌々年とおさまるところを知らず、その間に頻発した大地震(同6年4月7日、9月24日)、天体の異変(同7年5月4日)、さらには天平7年夏、 太宰府から始まり、多くの官司が罹病したために朝廷も停止せざるを得ない ほど猛威をふるった天然痘の流行、天平9年夏の相次ぐ朝廷要職者の死亡、 さらには藤原広嗣の乱が天平12年9月に勃発、朝廷はただちに強硬な制裁措置をとったものの、その翌月10月には聖武天皇が慌ただしく都を出立し、現在の三重、岐阜、滋賀県にあたる各地を約2ヶ月にわたって転々と行幸した末、その年末に恭仁宮に遷都をする等、国家の根幹に関わる深刻な事態が多発した。(日本古代の法華経滅罪信仰の形成と民間への浸透について・アップル荒井しのぶ氏)

ちなみに中国でも天台大師を庇護した地方政権は他国の侵略に逢い、国王もろとも全滅して、天台大師も命からがら国を脱出しています。