正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

護国経典への道

日蓮立正安国論で提唱された滅罪の経典→法華経信仰のベースには、今まで見てきたような仏教先進国の唐からの情報を丸呑みした個人の「生死の罪を滅する法華経」は、日本ではもっと拡大して、厄災としてあらわれた国家の罪をも滅する祓除的意義をもつ経典であるとして拡大解釈され、国分寺の浸透とともに天平年間くらいには護国経としてその地位を確立したそうです。

国家鎮護の要請を背景として、その遂行の任務を担った仏教者たちはどのような対応をみせたのか。『法華経』に焦 点をあてて考えるならば、まず当然のこととして官僧による法華経読誦、講説など法会等の勤修があげられる。

また、学僧によっておこなわれた法華経研究もそこに加えられよう。八世紀後半、中央官寺の僧侶によって極めて多くの法華経研究書が著されたことが、『東域伝燈目録』によって知られる。

井上光貞氏によるこの目録の研究によれば、奈良時代の僧侶の著した研究書では、『法華経』に関するものが十六または十五例にのぼり、他の『最勝王経』の五例、 『維摩経』の五例に比べて破格に多い事が示されている。

氏はこの理由を、学団外部の護国密教への呪術的関心を軸に、護国経として鎮護国家の法会で『法華経』が講説される機会が多かった事、それに伴い、後進の教育の 為に『法華経』講議の必要があった事をあげられている。(日本古代の法華経滅罪信仰の形成と民間への浸透について・荒井しのぶ氏)

こうした地盤を元に最澄の登場で鎮護国家の比叡山へとつながっていきますけど、もともとに除災の意味合いは、法華経は内容的に説いておらず、そこを埋める必要が密教に求められたという仕組みですね。