正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

法華のご利益顕然

聖武天皇の皇后である光明皇后は、全国に「法華滅罪之寺」を建て、これを「国分尼寺」と呼んで「法華経」を信奉した。

天平6年の太政官奏以降、 非常に多くの私度の沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷が『法華経』を修得して官 許を得たということを示しており、また逆に言うと、官許を得た出家者としての彼等の権威の源泉の一つが、『法華経』読誦であったと解釈できよう。
諸国地方の私寺、私堂、山寺などで、中央官寺と同様に『法華経』の講読、 書写、法会が行なわれていた事も『霊異記』に散見されるところである。

下巻9話(日本霊異記)では、藤原廣足が宇陀郡真木原の山寺で写経を行ったこと、同じく下巻18話では丹治比郡の野中堂と呼ばれる道場で、経師を招請し行われた写経に在俗 の女たちが参加したこと、また下巻20話では粟(阿波)の国のある在俗の女人が 麻殖郡の苑山寺で法華経を書写したことを記している。さらに中巻3話では、 ある防人の男が同行した母を殺そうとして誘い出す言葉が、山中で法華経の大会が7日間にわたって行なわれる、というものだったことが記されている。
これらの説話から、法華経書写に携わろうとする在俗の男女や法会に参加せんとする庶民を受け入れる私寺、私堂、山寺などの場が地方の各地にあった事が伺われるが、このような場こそ、多くの沙弥、沙弥尼、優婆塞、優婆夷が滞在、 往来した場であり、さらに、彼等が地方民衆と直に接し、法華経滅罪説話などを持って滅罪の呪力を持つ経典としての『法華経』を唱導教化した場であったと考えられる。

聖武天皇の「国分寺造立の詔」(天平13年3月24日条。741年)にみられるように、護国のための寺院が各国に建立され、東大寺の建立・大仏事業が、奈良時代の仏教流布となります。

しかし、鎮護のための法華経を配して国分寺国分尼寺を建立し国僧に護国鎮護を祈らせても、災害や飢饉などにはまったく効験はなかったようです。

結果的にむやみな徴収で民衆も貧窮化し、そこに自然災害やさらに疫病に悩まされたことから、「法華滅罪之寺」国分寺の配備という国家的、仏教的な事業は、経済的にも護国的にも破綻事業といわれることになりました。 これが像法時代のまだ大乗仏教で説く白法、釈迦の利益があった法華経を信奉した結果です。