正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

政治に加担する僧、しない僧

当時の東国に当たる『群馬県史研究』に「両毛地方の仏教と最澄」を著された菅原征子氏の文中に、最澄の上野・下野での活動の一つ、大慈寺(栃木県下都賀郡岩舟町)の安東・安北両塔の完成に合わせて最澄の来訪を要請したと箇所があり、この両塔は六所宝塔のひとつで最澄の発案とされるものです。

ここに一千部法華経 の宝塔への安置、連日の法華経の長講(論者が入り代わり講ずる)、大乗菩薩戒の授戒、付法灌頂の伝授等々が行われたとあります。

国分寺の護国・滅罪経典としての法華経安置が東国にも影響している証拠ですね。最澄はこの法要に呼ばれたそうですが、ここから徳一との論争が始まることになります。

この問題に詳しい日本史学・歴史教育学者の宮原武夫氏は、最澄と徳一の論争が激しくなったのは、最澄が当時の朝廷が進めていた蝦夷征討に徳一が「非協力」的とみなしていた政治的問題にあったと指摘しています。

最澄が東国に下った際に活動の拠点としていたのは亡き道忠が活動の拠点としていた下野国と隣の上野国であったが、両国は当時朝廷が推奨していた蝦夷征討の兵站基地となっており、更に下野・上野両国から陸奥・出羽両国に対しては国司からの課役を逃れるための逃亡や朝廷による移住政策によって多くの人々が移り住んでいた。

蝦夷討伐には徳一の法相宗を含めた南都六宗や東国の鹿島神宮香取神宮も征討の成功を祈願したり、寺院や神社を建立するなどの積極的な協力を行ってきた。

朝廷から天台宗の公認を得たばかりの最澄も東国における蝦夷征討を巡る様々な動きに直面して関心をもったと考えられ、この時の最澄の東国行きに随行した弟子の円仁(下野出身)も立石寺など東北から北関東にかけて多数の天台宗寺院が建立したと伝えられており、最澄とその門人は下野・上野両国を足掛かりに奥羽の人々に対する教化を進めようとしたとみられる(最澄・徳一論争と蝦夷問題・宮原武夫氏)

最澄は『決権実論』(けつごんじつろん)の中で「北轅者常に迷ひて、分明の文を指さしめ、南、越の方に向はしむ」と記しているが、これは自分達や南都六宗と違い、蝦夷征討に対して祈祷や教化を通じた協力をせず、南の越後に向かって宗勢を広げようとする徳一の政治姿勢に対する批判・皮肉であったと宮原氏はみています。