正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

最澄と徳一論争の裏側

朝廷の東国政策に加担して南都六宗の影響を脱しようと、叡山の拡大に腐心していた最澄の政治的宗教政策は、法相宗の徳一と論争までして必死でした。

徳一と最澄との間で争われた宗教論争は、一般には「三一論争」とか「三一権実論争」といいます。権(ごん)は仮(かり)の姿とか方便という意味であり、実は本当の姿とか真実という意味。乗とは乗り物のことだが、修行方法を乗り物に喩えて、乗と言っている。三乗とは三通りの修行方法の意である。

最澄が、とくに『法華経』を円教としてもっとも崇拝したのは、この経が、差別的な偏見をしりぞけ、ものごとを平等にみる教理を述べていたからである。藤原仲麻呂の子で著名な法相宗の徳一(とくいち)との論戦も、人間の差別を宿命づける法相宗の教説に対し、『法華経』の平等思想から、強く反論するためであった。

最澄は『法華経』を、差別するままを平等にみる経典である、と解釈し、のちの日蓮のように、差別を否定する統一を主張していない。だから最澄の場合は、円・禅・戒・密の四宗が、差別のまま共存を認められるのである。のちの比叡山が混合主義(シンクレチズム)の総本山となり、異質の仏教の母胎となりえたのも、一宗だけにこだわらない最澄のこういう寛容な精神に由来していた。

しかし寛容といっても、唐代の仏教を輸入することだけで精一杯だった最澄には、四宗の優劣を批判するだけの独創的な力量はまだなかったのである。(鎌倉佛教|親鸞道元日蓮・戸頃重基)

朝廷の東国政策に従順でなかった徳一と最澄の衝突は避けられない障壁でした。表は法義の衝突になっていますが、裏は政治闘争としての道具(法華経)と権力の道具を拒否する徳一の信条的衝突ですね。