正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

残念論争の結末

日蓮最澄が徳一に完勝したと遺文で書いていますが、実際にはその後も論争は続いていて、こういう事情になっています。

徳一と最澄の論争から150年を経た応和3年(963年)には、宮中清涼殿において法相宗の法蔵(賢首大師。905年 - 969年)と天台宗の良源(元三大師。912年 - 985年)との間で、再び三一権実を問う諍論が行われ(「応和宗論」)、天台宗の記録においては良源が法蔵を論破したとしている。良源の弟子である源信(恵心僧都・942年 - 1017年)は、天竺以来の三一論争をまとめ、一乗真実を説いた『一乗要決』を著して日本における三一権実論争は終息した。(参考・徳一と最澄:高橋富雄)

 ということなんですが、これもまた延暦寺側の言い分で、前提が五時八教という教判や大乗仏典は全て釈迦が在世で説いたことを根拠にしているので、まったく話は噛み合っていません。

最澄空海の時代には、すべての仏教経典はブッダにより、この45年間に述べられたと一般には信じられていた。もっとも最澄空海に論争をいどんだ会津の僧徳一(とくいち〈ママ〉)のように、仏教経典のあるものはブッダの滅後、数百年を経て成立したと主張する者もいたし、中国の天台宗の僧たちや最澄がどこまで素朴に「釈迦が一代で全経典を説いた」と信じていたかはわからない。

ともあれ唐代(618-907)の天台宗は、それまでに知られていたすべての仏教経典は釈迦が一代で説いたという一般的な考え方に立って、それらの経典の説かれた五つの時期(五時)を設定し、すべての経典(群)にランク付けをなした。天台教学が重視する『法華経』は最後の時期に説かれたという。最澄も当然その説を引き継いだ。(最澄空海・日本仏教思想の誕生18~19頁:立川武蔵氏)

赤文字が秀逸ですね、この時代にこういう発想はおそらく全ての経典を読破して矛盾点を知っていたんでしょうね。今の時代としては徳一側の背景が正しいのですが、日蓮最澄も一代仏教は全て釈迦の教説が前提でしたが、いまや残念。という事になります(笑)