正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

再び因縁譚

仏教の因果律を統治する側が、民の平定のために政治利用という思惑は、様々な因縁譚を編集した説話に時の高貴な方々も参加することで広く浸透したようです。

それに抵抗した徳一や、それに乗っかった最澄さんも歴史の流れの中で或いは批判されたり肯定されたりしましたが、それも大きな流れの因縁と言えそうです。

殺生譚が顕わにするのは、衆生が内なる本能あるいは根本衝動によって我と我が心を損ない、果てしない持続的苦の構造へと嵌り込む過程であり、その必然性である。

自らの生命を脅かす者に遭うとき、衆生の心は自ずから嫌厭反応 を起こし、瞋恚の悪念に汚されずにいない。殺生をなした者も、自業と相手の悪念との双方に引かれて次には殺される側となり、死に際の心を瞋恚の悪念で 汚さずにはいない。

心の汚れの発生には、他者との関係、他者の諸行為も関わるが、本源をたどれば、自らの生命への愛執が原因・起点と見るべきである。

内なる本源を断つことは難しく、心が危険にさらされるのは殺生の場合に限らない。外敵に遭わず、老化・発病を経てより緩やかに死にゆく場合も、身の諸変化と愛執に囚われた心との間にやはり葛藤が生ずるであろう。

衆生にとって、すべての死はいわば横死であり、終わりゆく生命自体への未練として、悲しみ・ 怨みといった瞋恚の発動が避け難い。瞋恚の生じた心はそれ自体苦であり、後の苦の因でもあり、さらに他の悪行を引き起こす契機ともなって、衆生を苦の境涯に繋ぎ止める。衆生の自然である生命への愛執が、衆生を悪と苦の方向へ と引き、留め置いている。(柏木寧子氏・『今昔物語集』天竺部における釈迦仏ならびに衆生の理解)

なにがこの世に生まれさせるのか?仏教の本来はこういう視点であったことが再確認されます。