正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

再起動する恩讐

交互に師弟子や敵味方となってお互いの過去の関係を精算しあう話に提婆達多と釈迦の説話(王と阿私佗仙人)が有りますけど、こういう背景には悪因苦果の因縁物語があるようです。

悪業は、かりにも最初の一殺生が生ずれば、主客交替しつつ報復し合 うこととなり、無数の後続する殺生が惹起されかねないという点で、極めて重い。畜生道の存在はともあれ、人間道に生まれた者に関する限り、殺生はどちらかといえば特異な、自ら当事者となることの稀な悪行であるかも知れない。にもかかわらず、殺生譚が描く衆生の在りようは、あらゆる衆生の存在真相を現していると考えられる。(柏木寧子氏・天竺部における釈迦仏ならびに衆生の理解)

自らの生命への愛執が衆生(人間以外も含めた)を生み続ける営為に立つなら、いかなる生き物であれ、有る感情を向けられた生き物は、その感情を発した(殺意や収奪、謀意)に向けて、対抗する感情を発すであろうことは理の当然です。強い感情が特定の他者に方向づけられているということは、心がその他者に執し、囚われた状態にあることを意味する。これらの関係はある感情を媒介として、自らとその対象の双方を相互に強く結びつけつつこの世の終末に至る。しかし、それは次の生の始まりでも有ります。

一度発された報復の願は、後に機を得て成就する。心に願を発したりそれを誓言したりした過去生の行為が因となり、未来生にその実現という果を受ける。
およそ行為をなせば潜勢力が残り、遅かれ早かれ行為者の上に果が現出すると見るのが仏法の業の観念であり、善因楽果・悪因苦果の因果応報が説かれる。
発願という意業に即すれば、善悪の願を発す行為が業因となり、楽苦の境涯が業果として現れるという因果応報が考えられるが、善・楽、悪・苦の必然継起性に先立ち、まず発願・成就の必然継起性が想定されていよう。(同書)

こうして相剋の関係が次世もまた次世も続いていくのが輪廻の起動となっているそうです。