正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

恩讐劇場の発端

交互に宿世の恩讐の果たし合いのサンプルを柏木寧子氏が解説する今昔物語からピックアップします。

「二(ふたつ)の魚相語(うお、あいかたって)云く、「我等、此の人民の為に前世に咎無しと云へども、忽(たちまち)に此の人民の為に被食(くわれ)なむとす。我等前世に少(すこし)の福有らば、必此の怨(あだ)を報ずべし」と。

「乃往(ないおう)過去に此の三十二人、他人の牛一頭を盗て共に牽(ひ)く。一(ひとり)の老女の家に至て殺さむとす。老女殺具を与(あたえ)て殺さしむるに、既に刀を下す時に、牛(うし)跪(ひざまずい)て命を乞ふと云へども、「殺さむ(ころす)」と思ふ心盛(さかん)にして、不許(ゆるさ)ずして殺しつ。
牛死ぬる時誓て云く、「汝等(なんじら)今我を殺せり。我れ来世に必ず此を報ぜむ」と云て死ぬ。三十二人共に此を食す。老女又食し飽て(あきて)喜(よろこび)て云く、「今日、此の客人(三十二人の客)来れる。我れ喜ぶ所也」と云(ふ)。」

 

(解説)魚を殺した釈種も牛を殺した三十二人と老女も、魚・牛に悲しみを懐かせた点で全く同罪である。殺される側にすれば、「我等、此の人民の為に前世に咎無しと云へども」という理不尽感は如何ともし難く、たとい不可避・最小限の殺生であれ、殺す側がその正当性を主張する論理はおそらくないのである。

魚・牛の悲しみは、自らの生命を全うできない未練に由来する。「跪(ひざまずい)て命を乞ふ」牛の所作が示すのは、生命あるものが自らの生命をいとおしむ、その愛執の度の強さであり、根の深さであろう。自らの生命を育まれて喜び、損なわれて悲しむことは、人々にとっての自然であるばかりでない。一種の情緒的感応能力ともいうべき働きは、本能あるいは根本衝動として一切衆生のうちに組み込まれている、と仏法は見る(柏木寧子氏・柏木寧子氏・『今昔物語集』天竺部における釈迦仏ならびに衆生の理解)

こういう原因がお互いに発動して、幾世となくお互いに生まれ合わせてその時の感情を交互に晴らしていく恩讐のドラマの発端です。

それぞれの動物の死に際のその瞋恚(いかり)は報復の発願となり、殺す者への害意が明確に表出されてこの世を終わる。「我等前世に少の福有らば、必ず此の怨を報ずべし」「汝等今我を殺せり。我れ来世に必ず此を報ぜむ」

魚・牛のこの誓言(報復の意思)には、前生から今生、今生から後生と、因縁を背負って転生する生命の有様が語られている。