正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

種=意業

柏木寧子氏の今昔物語をベースとした説話の解析はなかなか面白いですが、物語としての相互の恩讐を現実に見てみると意外と仏教僧の相剋にも見当たる所があるので、なるほどと思ってしまいます。

たとえば前出の最澄と徳一の関係も、空海との経典の貸し借りで仲違いをした最澄が徳一に関わる所以はないのですが、その理由の必然性のなさが逆転することが過去以来の恩讐とも言えますね。

平安期の安倍晴明芦屋道満も一度は清明は窮地に追いやられていると史書には書いてあります。となると法敵やライバルとされる関係も過去生以来の恩讐の仲ということでしょうか?

一度発された報復の願は、後に機を得て成就する。心に願を発したりそれを誓言したりした過去生の行為が因となり、未来生にその実現という果を受ける。
およそ行為をなせば潜勢力が残り、遅かれ早かれ行為者の上に果が現出すると見るのが仏法の業の観念であり、善因楽果・悪因苦果の因果応報が説かれる。
発願という意業に即すれば、善悪の願を発す行為が業因となり、楽苦の境涯が業果として現れるという因果応報が考えられるが、善・楽、悪・苦の必然継起性に先立ち、まず発願・成就の必然継起性が想定されていよう。そもそも身口意の三業のうち仏法が最も重視するのは意業である。
雑念なく集中した心が何事か思念するなら、それがただ一刹那、一回限りの生・滅で途絶えたとしても、後に計り知れない潜勢力を残すと見る。(柏木寧子氏・『今昔物語集』天竺部における釈迦仏ならびに衆生の理解)

普通はどんな悪いことをしたか、という信仰者の行為(業)の方にウェイトが置かれるのですが「最も重視するのは意業である」という指摘は、日本仏教的ではなくかなり新鮮かと思いますね。

心に思ってしまったことが一番重要度が高く、輪廻の元だというわけですね。