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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

一族滅亡の時期?

法華経は72歳から霊鷲山で説かれた設定ですが、釈迦一族に関係する時系列では釈迦国とコーサラ国の間の武力衝突は、ヴィドゥーダバ(毘瑠璃王)即位の直後のこと。

前王・波斯匿王の死とヴィドゥーダバ(毘瑠璃王)の即位は釈尊 77歳 =成道43年の雨安居後のことであったことが確認できる。そしてその直後にヴィドゥーダバ(毘瑠璃王)と釈迦族の間に武力衝突があったとすると、釈迦族の滅亡は釈尊成道後44年の雨安居前のことであったとなります。

さらに玄奘三蔵が記したインド旅行記・大唐西域記にも以下のようにあります。

◎大城の西北に数百千の窣堵波(卒塔婆)がある。釈種の人たちが誅殺されたところである。

毘盧択迦王(毘瑠璃王)は釈氏(釈迦)の一族の 9,990万人を捕え、皆殺しにした。誅釈の窣堵波の西南に4つの小さな窣堵波があり、4人の釈種が軍勢を防いだところである。

初め勝軍王(波 斯匿王) が即位して結婚を釈種に求めたが、 釈種の人は王が同類の人でないのを卑しみ 偽って使用人の女を嫁入りさせた。この女の産んだ子が毘盧択迦である。毘盧択迦は釈氏に留学し、新しい講堂に休んだが追い出されて、下婢の産んだ子だと辱められた。毘盧択迦は即位して軍隊を起してここまで来たが、4人が戦って侵入軍を退散させた。しかし狂暴な行いをしたと非難されて追放された。

追放された4人は北方の雪山のほうに行き、1人はウッディヤーナ、1人はバーミヤーン、1 人はヒーマタラ、1 人は商弥国の王となり、血統は絶えることがない。(大唐西域記・中国古典文学大系)

こちらは既に全てが終わった後の伝承などが集められていますので、釈迦一族が全て滅ぼされたわけではなかったことが記されています。釈迦族の幾人かはその出家集団に参加していた。生き残った四人の一人がヒンドゥー教に改宗して釈迦族は存続したという伝承、インドのウッタル・プラデーシュ州南部には釈迦族を自称する一族が現在も住んでいる説、ネパールのパタンにネワール族のサキヤ・カーストという職人たちが存在しているという確認情報もあり所説様々です。