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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

恣意的引用のサンプル

日蓮さんの経典引用は気をつけなければいけません、かなり強引な解釈を施して、さもありなんとやっているのが多いです。例えばこれ。

「先業の重き今生につきずして・未来に地獄の苦を受くべきが・今生にかかる重苦に値い候へば・地獄の苦みぱつときへて死に候へば・人天・三乗・一乗の益をうる事の候」(転重軽受法門・真蹟)

この転重軽受とは「重きを転じて軽く受く」と読む。これは「涅槃経に転重軽受と申す法門あり~益をうる事の候」(転重軽受法門)とあって、涅槃経が論拠だそうです。この遺文で日蓮さんは法華経を広めるが故に難に会う、その難は過去の重罪が消えているのだ、と強弁しています。

一言で言えば人の行為のなかに何らかの意思があり、それに基づいて何かを行えば、なんらかの結果を招くのは業の理屈。一般には衆縁和合の道理と説かれ、その原因と条件が揃うとある結果を招きます。悪業を作ると、その報いは今生であれ来世であれ遅かれ早かれ縁を得て現生します。ごく普通に因果の理法とも言います。ところが同じ大乗涅槃経にはまったく違うことが書かれています。

あらゆる業は必ずしも報いを受けないが、必ずしも受けないと言っても受けないわけではないことを知っておくべきである。
人々のなかには賢者と愚者がいる。賢者は正しい知慧によって地獄で受けるはずの極重の業の報いを現世で軽く受けるが、愚者は現世で受ける軽い業の報いも地獄で重く受けるのである。(中略)
もしどんな業も必ず苦しみの報いを受けることが決まっていたら、禁欲して解脱まで修行する必要はない。不定であるから修行するのである。

つまりまったく悪業をなくしたら、幸せな報いを受けるし、もし善業を捨てたら、苦しみの報いを受ける。
あらゆる業が必ず報いを受けるなら、八正道を修める心を起こさないだろう。八正道を修めなければ、解脱はない。あらゆる聖人が正道を歩むのは重い悪業を消して軽い報いを受けたいためであり、不定な業には報いがないからである。(中略)

もしあらゆる業が必ず決まった報いを受けるなら、一生の間作った善業は安楽の報いを受け続けることになり、反対に一生の間作った悪業は永久に苦しみの報いを受け続けることになるだろう。もし業の報いがそうであれば、修行も解脱も涅槃もないことになる。(師子吼菩薩品第十一の五〈大正蔵経十二巻五五〇頁上〉)

日蓮さんは涅槃経を引用しながら、こういう箇所は無視してますね。これに拠れば題目とか関係ないですね。八正道とチャンと書いています。日蓮さんの遺文に八正道を修めましょうなんて、無いですからね。