正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

日本の戒の流れ

日蓮さんの戒壇構想が曖昧なまま弟子に継続されて、各門流は具体的な戒=戒壇は近年まで曖昧なままであったことは、過去記事で見たとおりです。
富士戒壇を標榜する富士門流ですらその実態は本尊に帰趨した時代があったり、建物とする時代もあったりで、その戒律の細目も受持即持戒である以上、信仰心のみという抽象的なものでした。

もともと日本の戒壇の設立が仏教僧は官僧(国家公務員)で、税金逃れで出家する自称・僧侶の管理が主な主体。悪く言えば戒すら国管理で行って、それに随順する人が国家僧。

年間定めた人員しか認めない国家管理の僧が発端でしたので、インドの世俗から離れる無生産者を出家、の概念からすれば程遠い出家観でありました。

鑑真は754年、東大寺戒壇を築き、同年4月に聖武天皇をはじめ430人に授戒を行ないましたが、すぐに放逐されて中国にも帰れず仕方なく唐招提寺でその生涯を終えました。

鑑真と朝廷の蜜月はこの時がピークだった。鑑真は僧侶を減らす為に来日したのではない。正しく仏法を伝えた上で、多くの僧を輩出するつもりだった。彼は全国各地に戒壇を造る為に仏舎利を3000粒も持参していた。一方、朝廷の本心は税金逃れの出家をストップさせること。両者の思惑は対立し、758年、鑑真大僧都を解任され東大寺を追われた。鑑真は自分が財源増収のため朝廷に利用されたことを知る。あの命をかけた渡航や栄叡の死は何だったのか。「こんなハズでは…」既に70歳。海を渡って唐に戻る体力はなかった。(鑑真の生涯

国が期待した戒律保持者の第一回授戒が済み、後継僧が出来れば、鑑真は用済みとなりました。時代がすぎれば東大寺戒壇院も官僚的になり、権力志向の戒壇となりました。この悪弊は、その後梵網経を元として南都に対抗し大乗戒壇を唱えた最澄も、比叡山戒壇院が国家認証になり最澄没後に弟子たちが維持していく中で、徐々に権力的となり叡山を脅かす存在を激しく弾圧します。

鎌倉仏教法然はその悪弊に終始対応せざるを得ないことで流罪となりました。道元親鸞栄西もその対応に神経質になっています。

日本達磨宗の大日能忍はけっきょく叡山の圧力と天朝の認可権に潰された新興仏教団の第一号です。法の正邪はまったく関係ありません。叡山や日蓮が右にならえして攻めたキーワードは「禅天魔」でしたが、経典や伝法次第を無視して勝手に教団を立ち上げる自由(利権侵害)を認めなかったのが当時の叡山の態度です。

仏教が利権の道具になっていた証明です、それは新興仏教だった鎌倉仏教も時代が経つにつれ権力化していきます。