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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

日蓮の戒思想

日蓮の一生を通して遺文を見ていくと、様々に揺れていることがよく分かる。つまり自身でも佐渡以前と佐渡以後を仏の爾前経の如しと残している遺文もある。

「法門の事はさどの国へながされ候ひし已前(いぜん)の法門は、たゞ仏の爾前(にぜん)の経とをぼしめせ」(三沢抄・真蹟なし|日興写本)

人間は思想的変遷をたどるので、これはこれでいいのだが、そうすれば佐前になる立正安国論は爾前経という扱いでいいのかどうか?伝承では臨終前に講義をしたというし、化導については立正安国論に終始するらしい。これも扱いは一定しない。

さらに戒については末法無戒とし、受持即持戒を肝心としていたのに突然三大秘法として本門の戒壇が出てくる。

仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少なし。正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少なし。像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少なく無戒の者は多なし。

正法には破戒無戒を捨てゝ持戒の者を供養すべし。像法には無戒を捨てゝ破戒の者を供養すべし。末法には無戒の者を供養すること仏の如くすべし。

但し法華経を謗ぜん者をば、正像末の三時に亘りて、持戒の者をも無戒の者をも破戒の者をも共に供養すべからず。供養せば必ず国に三災七難起こり必ず無間大城に堕すべきなり。(教機時国抄・弘長二年・真蹟なし) 

★「今末法当世の有智・無智・在家・出家・上下万人此の妙法蓮華経を持って説の如く修行せんに、豈仏果を得ざらんや。さてこそ決定無有疑とは、滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給へり。三仏の定判に漏れたる権宗の人々、決定無間なるべし。是くの如くいみじき戒なれば、爾前迹門の諸戒は今一分の功徳なし。功徳無からんに一日の斉戒も無用なり。」(教行証御書・文永十二年・真蹟なし)

★「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(かくとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土(りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」(三大秘法抄・弘安五年・真蹟なし)

先の佐前・佐後の教示に即せば、教行証御書は弘長年間で初期の部類に入るので無視していいものかどうか、ただし明確に「末法無戒」を謳っている。

さらに文永十二年の教行証御書は佐後に入るのでここでも「一日の斉戒も無用なり」と残しているので、同意と見ていいかと思う。