正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

戯論に終始する無始無終

日蓮本仏系では、よく大日如来阿弥陀如来は架空の仏だ、仮に実在としても我々とは何の関係も無い。といいます。

全て諸仏の根源、久遠元初の自受用報身如来も同じ系統です。そんなものはありません、因果をいうわりにこの辺りが杜撰です。

三千塵点劫とか五千塵点劫とか長大な時間を文字にして読む人の頭をおかしくさせますが、そんなものは言葉の遊びで、原点があれば有因でしょ。それを設定しながら無始無終とか平気で書いているのでおかしいです。

「問うて云く大日経の疏に云く大日如来は無始無終なり遥に五百塵点に勝れたりと如何、
答う毘廬遮那の無始無終なる事、華厳・浄名・般若等の諸大乗経に之を説く独り大日経のみに非ず、
問うて云く若し爾らば五百塵点は際限有れば有始有終なり無始無終は際限無し、然れば則ち法華経は諸経に破せらるるか如何、
答えて云く他宗の人は此の義を存す天台一家に於て此の難を会通する者有り難きか、
今大日経並に諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり三身の無始無終に非ず、
法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破りたる五百塵点なり」(法華真言勝劣事・真蹟なし)

ここに無始無終だけズラッと並んでいますが、すべて法華経の解釈も含めて言葉の遊びではないでしょうか?だれが始まりなきことを証明できます?理論上はあり得ても現実体験でそんなことは誰も体験できません。

こういうのを戯論といいます、初期仏典では宇宙の果てとか、時間の始まりとか、悟りの国土とかすべて無記として釈迦は、退けられました。

こういう言葉の観念的な遊戯が日蓮さんの特質です。天台家自己証明のブランドとして持ちだしていますが、その天台家で成仏した人はいませんので、還元的には無意味なことになります。