読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

経題仁義

たかだかお経のタイトルが何か得も知れぬ不思議の力を持っている、という考えが現れたのは本家の印度ではなく中国です。

中国では依経の経題に意味があるのだとして、各学派(宗派ともいう)がそれぞれの経典のタイトルをこういう意味があると競いました。その流れに天台大師も乗って法華経の経題の意味をそれぞれ分けて意味付け(コジツケともいう)したのが五重玄です。

ですので、その時の国主や帰依者に我が経典こそこんなに素晴らしいと、経題に込められた意味を披露することで、学派の優劣を競っただけという、非常に不純な動機から始まっています。

大乗仏教は、釈迦の舎利を納めた仏塔信仰→経典信仰→そして中国では経題信仰に走ったわけです。

「題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計(ばか)りにして唱へてさて止みぬ。像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是、理行の題目なり、末法に入って今、日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」(三大秘法抄・真偽未決)


「又、南無一乗妙典と唱させ給事、是同じ事には侍れども、天親菩薩・天台大師等の唱させ給候しが如く、只南無妙法蓮華経と唱させ給べき歟。是子細ありてかくの如は申候也。」(月水御書・文永元年:真蹟なし)

上記の遺文は、その中国の歴史から見れば、まったく的を外して中国で発生した流行、そして廃れてしまった経題の意味訳に乗っかった勝手な理屈付けであることが分かろうと言うものです。