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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

名称と形態からみる本尊

日蓮正宗の公式アナウンスでは、日蓮の出世の本懐というのは以下のようです。

この大御本尊は、宗祖日蓮大聖人が『聖人御難事』に「此の法門申しはじめて今 に二十七年、弘安二年なり。仏は四十余年(中略)余は二十七年なり」(新編1396頁)と仰せのように、御本仏の出世の本懐として顕わされました。
日興上人の『日興跡条条事』に「日興が身に宛て給わるところの弘安二年の大御 本尊は日目に之れを相伝す」(聖典 519頁)と仰せのように、この大御本尊は、 日興上人、日目上人と唯授一人血脈付法の御歴代上人によって相伝されています。
日寛上人は「就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐の中の 本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり」(富要4-221頁)と説かれ、弘安二年十月十二日に御図顕の本門戒壇の大御本尊は、宗旨の根本となる本尊であると教示されています。(日蓮正宗サイトから)

日蓮系も色々ですが、楠の板に刻まれたとする文字曼荼羅日蓮の本懐で、 末法万年に不朽の仏体だそうです。弘安二年十月は同日付の消息文が残っていますが、そういう板に刻んだとする手間もヒマも根拠も乏しいのですが、まぁそういうことにしておかないと、マズい事情があるんでしょう。

さて究極のこの一切の人々が救われるというこの木材とその文字なんですが、これを初期仏典に照らしますと、釈迦の祖意とはだいぶかけ離れているようで…。

「みよ、神々ならびに世人は、非我なるものを我と思いなし名称と形態に執着している」 (スッタニパータ)

 この名称と形態というのは、初期仏典の法義の一つで、人がはっきりと知覚する身体や物体は、物質のあつまり(ルーパ)から成っています。心・精神現象は意識の行為、つまりアウェアネス(ナーマ)です。

お釈迦さんの解脱というのは、これに執着しては悟れないと言うんですね。