正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

題目修行の限界

経典に書かれた文字の重要性を日蓮遺文ではかなりしつこく説いています。それは法華系の習性でもあるようです。一部ですがそれを取り上げてみます。

◎「法華経の文字は六万九千三百八十四文字、一字は一仏なり。(中略)三十二相の仏よりも、法華経の文字こそ真の仏にて(御衣並単衣御書)

◎「御悟りをば法華経と説きをかせ給へば、此の経の文字は即釈迦如来の御魂なり。一々の文字は仏の御魂なれば、此の経を行ぜん人をば釈迦如来我が御眼の如くまぼり給ふべし。人の身に影のそへるがごとくそはせ給ふらん。いかでか祈りとならせ給はざるべき。」(祈祷抄)

◎「色相の文字はすなわち是れ応身なり」(法華経・開経偈)

◎「文字は是れ三世諸仏の気命なり」「文字を離れて、解脱を説くの義無し」(法華玄義)

ところが経典を見ると、釈尊は最古層に位置する『スッタニパータ』には、弟子達を導く修行にはニ段階があり、最初の清浄行の段階では、言葉による識別作用は残しています。日蓮の文字信仰はこの段階です。

釈迦の化導は次にこの言葉の働きを止滅させる無所有処という空の境地に導く階梯を設けて、ここまでを第一段階としています。

そしてもう一つの段階では瞑想によって言葉の識別作用が止滅した無所有処定の禅定の境地をはるかに超えた非想非非想処定、無相心三昧定の境地を超える悟りの世界を示して「滅尽定=悟り」を説いています。

なぜ最初に言葉の有益性を残したのでしょうか?それは私たちがりんごと皿をみて、言葉の働きにより、それらを実体あるものとして執着するからですね。

この執着(言葉による化導)を頭から否定すると教えが成り立たなくので、まず言葉の限界性まで弟子を引っ張っていったと言えるでしょう。