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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

文字の限界

日蓮さんは文字を以って本尊を表しました、しかし幾ら尊格を並べても文字の概念範囲を超えることはありません。つまり総体として悟りの境地と言っても具象である以上、限界があるということです。

八宗の祖、空を提唱した龍樹の八不中道の悟りについて各氏の論を引用しますと。

◎「ここでの縁起は、もはや縁りて起こるの意の相依性・関係性すらも突破して、端的に不生・不滅の真性そのものを意味していよう。それこそ真の空性そのものである。あるいは涅槃である。ナーガルジュナはそこに、仏の覚の世界を見たのである。実際、釈尊も不生・不老・不病・不死の涅槃に悟りを得ていたのだった。(聖求経)」(竹村牧男氏・インド仏教の歴史 講談社学術文庫

◎『中論は八不「―不生不滅、不一不異、不来不去、不常不断―」を中道と説く。また中道は空ともいう、この「空」は如何なることを物語るのであろうか?
★不一不異とは
現象はコトバで表され、コトバで現象が示される。言葉は言葉自身がその言葉の枠(縁)を形成するのであり、その枠に依って言葉がその言葉になる。言葉と言葉の枠(縁)は「不一不異」として成り立つのである。
赤色や青色で書かれていても「右」は「右」で「色」とはならない。「右」というコトバの枠から離れなれない。』(中村元氏)

 龍樹は、人間が外界を認識する際に使う「言葉」に関しても、仮に施設したものであるとする。
『中論』は、勝義諦(真諦)と世俗諦(俗諦)いう2種の真理があるとする二諦説を述べる。前者は直接認識された非相対的な世界であり、後者は言語によって概念的に認識された相対的な世界である。

言葉では表現できない釈迦の「さとり」は真諦であり、言葉で表現された釈迦の言葉を集めた経典などは俗諦であるとされる。

日蓮は龍樹を本尊に勧請していますが、根本のところで龍樹の意図を理解していなかったようです。