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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

リニューアルした三位一体

それでは五十九世日亨の頃に宗内闘争に明け暮れた日蓮正宗の檀徒や僧侶が自分たちが推薦する僧侶の権威を持ち上げるために出てきた近年の三位一体論を批判した当時の日蓮正宗僧侶の論説を上げます。

末法の正本尊は、発迹顕本の日蓮大聖人である。その本地本証たる久遠元初の自受用の尊容を一切衆生の為、万年流布の為自ら毫(ふで)を染めて親写し、御弟子日法上人に命じて之を楠板に彫刻せしめ給いしが戒壇の大御本尊であり、滅後の今日大石寺を以て唯一の義の戒壇とするに異議の申立を許すべきでない。

戒壇の御本尊と血脈相承と法主上人と一体不可離のものたる説をなした人があ
る。キリスト教の三位一体説を焼き直したような説をなした人がある。

三身即一身、三秘総在の一大秘法等の名目は古来から伝承したが、三位一体説
は全く一夜造りの手細工だ。

血脈相承が如何に高貴な伝灯証で我等凡下の窺知するを許さざるものとするも、法主上人が高徳賢明にして一世の景仰する所なりとするも、之を独一本門戒壇の大御本尊に比べては物の数ではない。

 「南無妙法蓮華經に余事をまじへば、ゆゆしきひが事なり。」

尊無過上の大曼荼羅に物を並べ奉ること且つは恐れあり且つは憚りあり、若し極言せば謗法罪を構成する所説である。かかる所説を盲信する者は法主の所在を以て戒壇となすならんが、吾人窃(ひそか)かに憂(うれい)なき能わずである。

大石寺が義の戒壇たるは閻浮第一の御本尊在すからである。血脈相承と法主
所在によるからではない。

戒壇の大御本尊貴き故に血脈相承貴し、血脈相承貴きが故に法主貴し、と、縦に次第すべきもので、之(これ)を横に並べることも、伊字(いじ)の三点的関係に置くことも、断じて許さるべきでない。

されば大石寺戒壇の大御本尊在します以上、他人をして血脈相承と法主上人の尊貴に向かって、鼎(かなえ)の軽重を問う自由を与えうる必要を認めない。(福重照平師『信・行・学』345~346ページ)

この論を持って批判した大正15年頃には「唯授一人と血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にまします」という三位一体論は異流義説だったようですが、日蓮正宗はかつて却下された教義がいつの間にか、何かを正当化するために装い新たに、その時の正論として再出現する怪しい教団であることは間違いないですね。