正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:光琳もいない

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尾形光琳江戸時代前期の画家・尾形光琳(おがた こうりん、1658-1716)。京都の呉服商・雁金屋 (かりがねや)の尾形宗謙の次男。弟は陶芸家の尾形乾山、曾祖父・道柏の妻は本阿弥光悦の姉。少年時代から能楽、茶道、書道などに親しんだ。父、山本素軒より狩野派の画法を学んだ。

1687年、父の遺産を相続する。35歳頃より光琳と称した。30歳代の終りより画家となる。1701年、法橋に叙せられた。1703年、奢侈禁止令の咎により「京市中住居お構い」により京都を追われる。

1704年、江戸に一度出る。「中村内蔵助像」を描く。1709年、京都に戻る。作品に繰り返される絵柄で構成された「燕子花図屏風」(国宝、18世紀前半)。宗達を模写し、宗達の「風神雷神図屏風」を意識した傑作「紅白梅図屏風」(国宝、18世紀前半)などがある。本格的な画業を始めたのは、晩年の20年ほどだった。屏風絵のほか、香包、扇面、団扇、小袖、蒔絵、水墨画など幅広く手がけた。妙顕寺に葬られた。

上記の襖絵は有名な「紅白梅図」 で尾形光琳は京都初の日蓮宗道場である妙顕寺に属したそうです。妙顕寺の本尊は釈迦如来像で大石寺が嫌う仏像本尊です。

妙顕寺は1334年、後醍醐天皇の綸旨(りんじ、蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書)により、法華経の最初の勅願寺となった寺です。開基は日朗の弟子・日像で何度も弾圧を受けるも日蓮が託した京都弘教を後醍醐天皇より弘通の勅許を得て達成し、四条門流と呼ばれた。

日像氏の行動は日蓮が誰に布教を託したか、実行力が示していますね。布教力といい信者の芸術力といい、大石寺はソフト展開でかなり負けていますね。

釈迦如来像を信仰する門流でもこういう人が現れて法華信仰の素晴らしさを発揮するのですが、戒壇本尊というあらゆるホトケの根源と称する物を持っているのに、尾形光琳を凌駕する人は大石寺からは出ていませんね。