正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:写楽もいない

江戸時代の謎の浮世絵師と言われた東洲斎写楽、寛政6(1794)年5月に彗星のごとく現れ、翌7年2月までの僅か10カ月間にかなり個性的な約140点の役者絵と数点の相撲絵を残し、それきり忽然と姿を消してしまったそうです。

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その短いながらも華々しい業績については、日本だけでなく海外でも人気でドイツの美術研究家ユリウス・クルト氏は写楽のことをレンブラントやベラスケスと並ぶ「世界三大肖像画家」と称賛(著作・Sharaku:1910年)し、これが逆輸入となって大正時代頃から日本でも再評価が高まったそうです。

 

正体が謎だっただけに諸説有って、その一例は、絵師の初代歌川豊国、歌舞妓堂艶鏡、葛飾北斎喜多川歌麿、司馬江漢、谷文晁、円山応挙、歌舞伎役者の中村此蔵、洋画家の土井有隣、戯作者でもあった山東京伝十返舎一九俳人の谷素外など、多くの人物の名があげられたのですが、近年の研究で決定打が発表されました。

写楽の正体は、阿波の能役者で江戸・八丁堀に住んでいた斎藤十郎兵衛ということでほぼ決着がついた。一方、斎藤十郎兵衛は1820年に江戸の千住で火葬されたとの記録が発見されたからです。

徳島「写楽の会」メンバーが1997年、江戸期には築地にあった法光寺という寺が現在は埼玉県越谷に移転していることを突き止め、その寺の調査から過去帳に斎藤十郎兵衛の没年月日を発見したそうです。

 

それによると法光寺は浄土真宗本願寺派築地本願寺の塔頭寺院(大寺院に所属する別坊)で現在は火災のために越谷に移転したのですが過去帳は、度々の火災にも焼失を免れて江戸中期以降のものが保存されており、斎藤十郎兵衛の一族は寛文年間(1660年代)から明治初期までの200年間にわたって法光寺の檀家であったようです。

浄土真宗といえば浄土宗の法然の流れですが、大石寺からは念仏信仰は無間地獄と蔑称されている宗派です。写楽のような人を一人として排出するだけの文化力のない宗派がよく言うよ、てなもんですね。