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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:ゴーマン教学

大石寺の閉鎖空間で、僧侶はゴマンといるらしいですが、現代に色々と指摘されている法華経の不備を誰も抗弁しようとはしません。ここの定義は鳩摩羅什マンセーで、間違っていようが恣意的訳文だろうが、正しいから正しいという立場で信者に押し切っています。

対して日蓮宗系や元大石寺の信者団体だった中から、法華経成立の歴史的経過や、羅什訳のサンスクリットとの整合性を果たそうと色々な学者がトライしています。その一人が植木雅俊氏であり、その成果の一つが梵漢和対照・現代語訳なんですが、出版賞をもらったりしているのに、大乗非仏説・法華経は釈迦在世ではなく後世の成立に足元が揺らぐ大石寺の教義にも有益なことを発表されていてもまったくシカトです。

なぜなら植木氏は反目する創価学会員であるからですね。学的に評価すべきならやるべきだと思いますが、大石寺はこの書籍を購入しながら沈黙を続けています。この書籍に対する評価はかなり高いようで、日蓮宗の僧侶のこんなところとか、なかなか誉めない出版界・編集人の松岡正剛氏も激ホメです。

 

世の中で高評価であっても、この宗派の癖としては、完全無視するのが常なのですが、自論補強のために使う例もしばしば有って、ただしあくまでもその見解が正しいとは言わない、一つ上の目線で、邪宗ですらこういう見解であると見下しながら使う例が多いのです。例えばサンプルとして

いま他門日蓮宗の所説をみるに、『本化聖典大辞林』(田中智学編)には
衆生に性種の仏種は有りとも、之これを開発せざれば無きも同然にして、何等なんらの功徳なく仏性とは名のみにして終る(中略)その能開発の力ある教法を名けて乗種といふ」(下巻二七八○頁)
とあり、『上古日本天台本門思想史』(浅井円道著)には
日蓮の宗教では理具よりも事具を重んじ、性種よりも乗種の有無を問題にしていた」(七四九頁)
相伝ながら御書の文言に随って、乗種為本の立場をとっている。

やですねぇ、自分たちの主張する所に使える所があれば、素直に典拠を出して不相伝だが、とか言わなくてもいいと思うのですが、そこが大石寺セコイいや姑息・・いや狡猾・・・とりあえず上から目線なところです。