読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:日像もいなかった

各門流の恩人とも言える人が、日蓮の帝都弘通(京都の布教)、宗義天奏(天皇への布教)を遺命された京都弘教を果たし、見事京都四条門流日像ですが、それまでの日蓮門流は弟子・信徒を合わせても数百人で鎌倉地方・東国数ヵ国に散在するにすぎない微々たる地方集団にすぎなかったそうです。

なにせ鎌倉時代に説話書ととして名高い「沙石集」がありますが、仏教関係の動きは細大漏らさず書かれているのに、日蓮について記録がないので、恐らく鎌倉でも一部の有る特定期の動きだったのではないかと言われています。

1275年(建治元年)日蓮の弟子で叔父の日朗に師事した。その後、日蓮の弟子となり、経一丸の名を与えられ、玄旨伝法本尊と呼ばれる曼荼羅本尊を授けられた。1293年(永仁元年)日蓮の遺命を受け、京都での布教を決行した。

途中、日蓮の足跡を巡り佐渡へ到着し法華経の布教をしたところ、石動山の僧・満蔵(日乗)が弟子となった。

1294年(永仁2年)上洛して間もなく、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い柳屋仲興、大覚寺の僧・大覚らから帰依を受ける。(ウィキペディア・日像から抜粋)

このあとで日像は京都で折伏をしますが、とてつもない弾圧を受けます、いわゆる「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」といいますが、、日像上人が追放例を受けて京都を追われ、許されて帰還する、というのを三度も繰り返したことを指します。

それほど頑張って日蓮の遺言を果たそうとして遂に朝廷から弘教許可の勅許が下り、日蓮宗は晴れて宗教として認められたということなんですが、日像の弘教は京都だけでなく日朗の元を出発してから途中の道程でもかなり折伏したようです。

 

で、大石寺偽書プンプンの二箇の相承とか言うのをよく持ち出しますが、日蓮滅後に何やってたんでしょうね?そういうまがい物を出さなくても日像のように事実で遺命を果たした事跡で誰が誰に何を託したか、ということが分かろうというものです。ちなみに日目や日興は大石寺にずっと居て何もしてなかったようです。