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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:日親も出なかった

正宗が伝統的に一番恐れるのは、国家からの弾圧です。口では勇ましいこと言いますが、その時代の歴史を見れば弾圧が吹き荒れたときには、じっと大人しくして、時の政権が宗派の立場を伺う文書が来たときも、権力者の意向を忖度した文書を提出したり、明治以降に神道体制のときも恭順の意思を表明して難を避ける体質があります。

 

例えば室町期ですが、日蓮の孫弟子に当たる日像上人が京都で華々しく弘教して弾圧されている時に、大石寺は傍観して事の成り行きを見守っており、天下晴れて後醍醐天皇から弘教の免許が有ったときに、ようやく京都へ伝奏するという風見鶏的日和見主義。

 

ところで、この室町期の日蓮系教団弾圧の前に名を馳せた日親という僧侶は室町六代将軍の頃に出た人で、久遠成院とも号します。

室町幕府の弾圧にも屈せず《法華経》の信仰を主張したので,頭から焼け鍋をかむらされたという伝説から〈なべかむり日親〉として有名。

上総国埴谷(現千葉県山武町)に生まれ、中山法華経寺(市川市)において出家した。その後京都に進出して「立正治国論」を著し、禅宗天台宗に基づいた政治を批判。
禅宗の信仰者であった将軍・足利義教法華宗に改宗する事こそが天下の政道であると日蓮がそうしたように将軍を諫暁したそうです。

結果的に弾圧を受けることになり、逮捕され、持論の撤回を迫られた。幕府は転向を迫り拷問として真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられたが、それでも日親は屈するコトなく法華経を説き続けた。ついに幕府はこれ以上日親に口を開かせないよう、舌先を切り取った上で市中に開放した。

この拷問の後、日親は四十年以上を生き、八十歳を超える長寿を記録しています、その様子をまとめた書籍「反骨の導師 日親・日奥」がありますのでそこから抜粋しますと。

日親が押し込められた獄舎の状態は、誠にひどいものであった。『埴谷抄』に記されたその様子は、

「四畳敷に卅六人入れられたるつめ籠(ろう)に入れさせ給き。余りに不便なりとて、翌日彼の越前守(えちぜんのかみ)余の者を廿八人出して六角の大籠に移し、八人ばかり留め置かれたりき。籠の高は四尺五寸(約136センチ)、上より打たるる釘はさきを返さず中に流すなり。」


日親は一年半を獄舎につながれ、さまざまな法難を受けた。江戸時代に本法寺日匠が著した『日親上人徳行記』には、次のように列挙している。

(一)炎天に日親を獄庭に引き出し、薪(まき)を積んで火を付け、これに向かわせて、苦悩耐えがたければ念仏を唱えよと強要した。

(二)凍りつくような寒夜に獄庭に引き出し、裸のまま梅の木に縛り付け、夜通し笞(むち)打った。

(三)日親を浴室に入れて戸を閉じて、三時ばかり火をたき続けた。

(四)梯子(はしご)に日親を縛りつけ、堤子(ひさげ)に水を汲んで口から流し込んだ。三六杯に至るまではこれを数えたが、その後いくらになったか数えきれないほどであった。

(五)竹串をもって日親の陰茎(いんけい)を突き刺し、あるいは焼鍬(やきくわ)を両脇の間にはさませたりして苦しめた。

(六)まっかに焼いた鍋を日親の頭の上にかぶせた。髪は燃え肉も焼けただれたが、大きな苦悩もなく、しばらくの後本復した。

(七)将軍が獄吏(ごくり)に命じて日親の舌を抜かせようとした。ところが獄吏はこれを憐れんで舌頭を少し切り取った。(『反骨の導師 日親・日奥』寺尾英智、北村行遠|吉川弘文館

大石寺では室町時代中期の僧侶に日有という人が居ますが、日蓮系教団の記録上でもなんら特筆すべき弘教の証拠は残ってません。こういう弾圧の時に大石寺が何故弘教に出ていかなかったという言い訳テンプレがあります。

 

「朝廷による宗教への保護と規制、また、江戸幕府の寺請制度と転宗の禁制、近代国家主義下の神道の強制などの歴史を経て、今こそ自由にみずからの意志で宗教を選び、弾圧、迫害の恐れもなく、堂々と信仰ができる時代となったのです。(日蓮正宗公式サイトから)」

 

嘘八百ですね、日親の門流や不受不施派は弾圧を恐れず天下に物申しています、大石寺は弘教すれば自らに起こる弾圧を恐れて出ていかなかっただけです。室町から江戸期、明治まで弾圧された日蓮門流はちゃんと現代でも残っています。