正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:蚊帳の外でした

ちょっと不受不施派の弾圧の主要な事件を見てみましょう。

★1595年(文禄4年)豊臣秀吉方広寺大仏殿千僧供養会のため、天台宗真言宗律宗禅宗、浄土宗、日蓮宗時宗一向宗に出仕を命じたことに始まる。この時、日蓮宗は出仕を受け入れ宗門を守ろうとする受不施派と、出仕を拒み不受不施義の教義を守ろうとする不受不施派に分裂し、妙覚寺・日奥は出仕を拒否して妙覚寺を去った。


★1599年(慶長5年)受不施派に訴えられ、徳川家康大坂城で日奥と日紹(受不施派)を対論(大阪対論)させた。権力に屈しようとしない日奥を対馬に流罪にした。


★1608年(慶長13年)、浄土宗の増上寺・廓山と法華宗(当時は不受不施派)の妙満寺・日経との宗論(慶長宗論)で、徳川家康が両者を江戸城で対決させた。日経は病を理由に答えなかった、もしくは対決前に襲撃を受け応答できなかったため、廓山が論破したとされる。


★1609年(慶長14年)、慶長法難。日経は、京都六条河原にて耳と鼻を削がれ酷刑に処された。


1616年(慶長17年)日奥は赦免されて妙覚寺に戻った。1630年(寛永7年)久遠寺・日暹(受不施派)は、池上本門寺・日樹(不受不施派)が久遠寺を誹謗・中傷して信徒を奪ったと幕府に訴えられ、江戸城にて両派が対論(身池対論)した。この時、久遠寺は本寺としての特権を与えられるなど、幕府と強いコネクションをもっていたことからそれを活用し、結局政治的に支配者側からは都合の悪い不受不施派側は敗訴し、追放の刑に処されることになった。この時、日奥は再び対馬に配流されることになったが、既になくなっており、遺骨が配流されたとされる。(ウィキペディア不受不施派

この江戸期に至るまで弾圧され続けた日奥(にちおう)は永禄八年(1565)六月八日京都町衆、呉服商辻藤兵衛の子として生れ、天正二年(一五七四)七月九日、京都妙覚寺十八世実成院日典上人のもとに10歳で出家(しゅっけ)した。文禄元年(1592)妙覚寺十九世を継承したと伝記にあります。(日奥について詳しくはこのブログを)

 

この方は、あくまでも祖意に添って日蓮の教えを時の権力者に進言したのですが、その頃の自称正統系譜・大石寺の坊さんは何してたんでしょうね?曼荼羅正意ではない日尊門流から貫首を何代にも渡って呼び、青息吐息の状態で諫暁どころでなかったそうです。

 

不受不施派の闘争の歴史には大石寺の入る隙間はなく、後出しジャンケンでやれ造仏はダメだとか今頃言ってますが、その造仏派から何代も来てるんですが(笑)