正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:金満檀那は二股信仰

なにかと花のない地味系の大石寺信仰は、江戸期から身分の高い人の帰依である広告塔の存在を盛んにアピールします。しかし、それも裏があり必ずしも大石寺信仰一筋ではなかったのですが、それをひた隠しに隠して信者には、このような身分の高い人も帰依されたと品のない自慢をしているようです。

◎天英院(てんえいいん)こと近衛熙子(このえ ひろこ)寛文6年3月26日(1666年4月30日)〜寛保元年2月28日(1741年4月13日)6代将軍・徳川家宣の正室。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・(品宮)常子内親王大石寺ではこの天英院のことをこのように誉めています。

「天英院は、大聖人の御真筆の御本尊を一幅奉持しており、朝夕この御本尊に祈りをささげることを怠りませんでした。母君の常子内親王も、上行院の参詣を怠らず信心に励んでおりました。

天英院は徳川宗家(そうけ)の正夫人であるため、すべての宗旨に一応平等な態度を示さなければならず、心ならずとも他の宗旨にも寄付をしなければならない場合もあったようです。しかし個人としての信仰は大石寺門流だけであったことは間違いありません

平和で充実した信仰生活を送っていた天英院にも最後の日が参りました。臨終に先だち天英院は数々の遺言を残しました。天英院は自分の葬儀が徳川家代々の墓所である芝増上寺で行なわれることは拒否できないことが解っていましたので、近衛家より奉持してきた日蓮大聖人御真筆の御本尊は常泉寺に納め、かつ百両の御供養を残されました。自分の永代回向のためと思われます。」(日蓮正宗サイト・天英院から引用)

 

徳川七代将軍・家継の早世後、紀州藩主の徳川吉宗を八代将軍に迎えるのに尽力したと言われ、また吉宗に正室が不在だったこともあり、将軍家女性の筆頭としてその後も大奥に権勢を振るい、幕府における発言力も絶大であったといわれる。日蓮正宗総本山大石寺の山門(三門)を寄進した。また、浄土宗明顕山祐天寺に鐘楼を寄進した。

赤文字部分は天英院が浄土宗の祐天寺に鐘楼を寄進した事実の言い訳なのだろうと思われますが、黒の太文字部分は、実は大石寺見解の姑息な嘘で天英院は曼荼羅信仰ではなかった事を隠していた決定的な証拠が有ります。

天英院の墓は1959年(昭和34年)4月に発掘調査された。墓の上には石製八角塔が建てられていた。(中略)遺体以外の遺品の残存状況は良くなかったが、注目されるのは香木で作った小さな十一面観音像があったことである。この像の裏には「奉刻 辛卯 男子 祈祷 梅窓院住 唯然」と彫られていた(増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体)

どうでしょう、都合の悪いことはすべてひた隠しで、信者には伝えない大石寺らしいやり方です。まるで戦中の大本営発表のような不正直さですね。