読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:天英院の顕彰碑

前回確認しましたように大石寺の江戸期の大檀那と言われ山門寄進や日精氏のスポンサーとして貢献した六代将軍徳川家宣の正室・天英院も二股信仰で、文字曼荼羅も観音像も信仰の対象としてたということです。

こういう信仰形態であったことを大石寺では、まったく存じないというスタンスですが、そんなことはありません。

「坐像(ざぞう)釈迦仏一躯(いっく)(後水尾院法華経題目書写し給ひし紙をもて、御手つから作らせ給ふ。模糊(もこ)の像にて、第一皇女級宮御方に御形見として進ぜられしを、天英院殿に譲らせられ後当寺に納めたまひしなり)」(新編武蔵風土記稿・本所区史:東京市本所区昭和六年六月二十五日発行)

「伽羅(きゃら)仏立像正観音一躯立像(りつぞう)・毘沙門一躯(文昭院殿御守本尊なり)四天王四躯(元文の頃、天英院殿御帰依にて浅草長遠寺より当寺に移されし像なり。以上六躯は昔別に堂ありてそれぞれに安置せしが、天英院殿三十三回御忌に当り御仏殿等御修造(しゅうぞう)遊ばされし時、何れも御取払となりし故其後は宝蔵に安置すと云)」(同書記録)

 天英院が菩提寺である増上寺に葬られて、一緒に埋葬された観音像は徳川家宣の守り本尊・観音像の対の立像ではないかと思われますが、それ以外に立像毘沙門像一躯。 f:id:gachinbow:20161025061157j:plain

また、天英院により浅草長遠寺から常泉寺に移された四天王像四躯は天英院が生前に常泉寺に寄進されて、当時の住職が本堂内に祀(まつ)られたという事が「諸記録」という日蓮正宗の宗内記録書でも確認できます。

で、大石寺には天英院の墓は分骨もされずに常泉寺にも無いのですが、五重塔という場所に墓碑(左の写真)が存在します。

この墓碑は顕彰の意味で建てられたそうですが、大石寺信者さんは盛んに徳川幕府の大奥の正室も帰依した由緒ある宗派であることを自慢するのですが、今まで検証してきた事を勘案すると、どうなんでしょう?

大檀那として大石寺にとっては有益な寄進をしてもらった人ですが、信心は二股で本尊も観音や一説には釈迦仏像も拝んでいたようで、大石寺流に染まった人とはいえません。そういう信仰形態を顕彰しているということは、信者もかくあるべしということで、暗に二股、もしくは幾つかの信仰形態を持っていても良いと言うことなんでしょうかね?