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正宗系観察日記

ウザい折伏を逆に伏せる(逆伏)ためのデータ記録

大石寺文化考:金に弱い体質

天英院の日蓮信仰のきっかけは京都の時代に親族の西山本門寺への信仰でした。この西山本門寺は公家でも最上位の近衛家の一族が信仰した勝劣派日蓮系で日興の流れで重須から分派した日代が西山氏の後ろ盾を持って開かれた門流です。

京都といえば日尊開基(上行院)の要法寺がありますが、この信仰の流れが天英院と同じく大石寺の大檀那・敬台院です。この方も仏像と曼荼羅の二股信仰であった事を大石寺は認めています。

過去記事ですが、「敬台院と法主」に書きました。そのあたりの事を大石寺日蓮正宗青年僧侶邪義破折班というHPに以下のように書かれています。

日精上人が『随宜論』を著された真意であるが、ともかく法詔寺に仏像が安置されたことで、門徒よりさまざまな批判的な意見が噴出した。この批判は敬台院に向けられたものだったのか、日精上人に向けられたものだったのか。恐らくは前者、敬台院であったと思われる。なぜなら、法詔寺の正式名は「敬台山法詔寺」と言い、敬台院の名が冠されていた。その名が示すとおり敬台院の私寺であることは誰の目にも明らかであった。そして敬台院は自分の寺に向けられた「造仏謗法」との批判を絶対に許さなかったのである。なぜなら、次の敬台院の文書に、敬台院の性格の一端を窺うことができる。


「此まんだら※は見申す度毎にあくしん(悪心)もまし(増)候まゝ衆中の内に帰し申し候」(※日精上人筆御本尊 富要八―五八頁)


とある。寛永十七年頃の敬台院は、おそらく信仰的な部分で日精上人と衝突し、日精上人書写の御本尊を拝すると悪心が生ずる、よって日精上人の御本尊は返却するとまで述べている。ここに、逆上すると信仰の筋目すら見誤るという、敬台院の直情型の性格が窺えるのである。(方便の書『随宜論』の真意)

ま、これでは大石寺にとって大スポンサーでもあり、御朱印寺実現の後押しをした大恩の檀那であった敬台院はまるでゴリ押しの信者のような扱いですが、大石寺はこの時代に個人的な檀那寺になったことをアンダーラインの箇所でひた隠しにしています。

過去記事でも触れましたが、御朱印寺の申請者は大石寺貫首ではなく敬台院の弟達が当時の地頭であった伊丹播磨の守を通じて申請したもので、敬台院は江戸城での根回しを行い見事、母親の菩提所となったのですが、反対する大石寺の大衆(僧侶や信者)を抑えるために大枚の金を寄進しています。

一 金子五百両、  是これは大石寺代々の上人達の賄方まかないかた本金に渡し申候、此の金子寺家じけ檀那中の才覚として借(貸)し置き 利足分を毎年取り立て当主の上人え指上げられ くりの続き候様に致さるべきなり。

一 金子弐百四拾壱両、 是は大石寺かやふき替えのために檀那中に預け借(貸)米に成り申し候、だんな中の預かり手形の儀は此の度与五右衛門、一郎衛門持参いたし手前へ請取り置き候者なり。
右の通り金子米きんすまいの所、檀那中とどこをりなく取立てらるべき者なり。 後日の為に件くだんの如し。
寛永十五年つちのへとら六月二十四日        境台院(敬台院)、日詔(黒丸印あり)
  大石寺、  寺家檀那中。

今も昔も大檀那が大枚下賜されると個人の旦那寺になろうが、二股信仰であろうが金には弱い体質です。